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映画「ブラック・クランズマン」の冒頭とラストの映像は蛇足ではない

なんか最近の記事が長すぎるので(自分で書いておきながら)、タイトル出オチの短いやつ書きたいなーと思って選んだのがこの話題。もう言いたいことは書いたけどこれで終わるのもアレなのでちょっとだけ続きます~。

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映画「ブラック・クランズマン」、よかったですよね~~!!なんていうか、エンタメであることを諦めずに、"正しく"あることや、怒りを表明することを恐れない感じが勇気づけられるというか。正面突破一択!!みたいな感じの監督の腕力が好ましいというか。

(それにしてもアカデミー賞を獲った作品て、どの部門でもエンタメとしての完成度が抜群に高いなといまさら感心しております。間口が広くて後味が爽やかなんだよな~なるほどこれがアカデミー賞か~ほぉ~~)(初心者の感想)

主演二人の佇まいがまた素晴らしかったですね!!アダム・ドライバーの出演作品、初めて観たんですが(たぶん)、思ってたよりいかついな?!?!て思いませんでしたか!!思いました!!

なんかスパイク・リー監督が怪気炎をあげているらしい、くらいの事前情報だけで観たのでいろいろ新鮮で面白かったのですが、特に主演二人の、"正しい"側にいることに気負いがない、自然体なのが本当に良かったです。おそらく二人の生い立ちや属性にその理由をもっと雄弁に語らせることもできたと思うのですが、それはしないんですよね。その抑制的な脚本?演出?が、センセーショナルな題材にうまくはまっていて、映画の技術力感じる~~!て思いました。ベテランの余裕てやつですか。

主演二人と同じように、白人至上主義者のリーダーもまた自然体なんですけどね。ウィキペディアで引用されているインタビューで、トファー・グレイスが「彼が好人物に見えることこそが恐ろしい」と述べていますが、それに付け加えることはないです。はい。

あと、悪名高い映画「國民の創生」を大勢で鑑賞するシーンがあるんですが、観客の無邪気な盛り上がりとかにぞわっとしました。ここの演出も冴えわたってました。監督の怒りと悲しみが痛いほどに伝わってくる印象的な場面です。

それで、この映画の舞台が1972年なので、上に書いたような人たちや光景は、監督(1957年生まれ)の「いつか見た風景」なんだろうなと思います。白人至上主義たちと、被差別属性をもつ人たちが、同じ時代、同じ場所を生きていながら絶望的なまでに隔たっている感覚("自然体"だから、それに気付くことさえない)。監督がこれまで観てきて、そして作品で扱ってきた世界の分断そのもの。

だから、冒頭とラストのあれは、監督からの「ただのエンタメとして消費することは絶対に許さん!!」というメッセージなんですよね。そりゃそうなんですが、それを観客の手に委ねない、という強い意志。でもこれ中身の面白さに100%の自信が無いとできないよね。さすがだ~!ほかのもっと抽象的な問題へのすり替えを許さない、まさにBLMがそのスローガンに込めた思いがそのまま映像になったような作品だなと思ってすごい感銘を受けたので、絶対に蛇足では無いです。

無いほうが普遍性を獲得できるのでは、みたいな感想をどっかで読んだけど、それこそ監督がやって欲しくないことだろ、と思いました。なのでこの文章のタイトルに行きつくわけです。賞レースには不利かもしれないけど、でもこのスタイル(ものすごい前のめりのファイティングポーズ)で殴りこんで来たこと自体が、監督のやりたいこと、作家性だと思うんですよね。ただの妄想ですが、たぶん編集とかの段階で誰かに「最初と最後のやつ、もっと控えめにしたほうが賞を獲りやすい」って絶対言われたはずなんですよ。で、それを一蹴してあのかたちに仕上げているわけですよ。知らんけど。その覚悟を、そのまま受け取ろうじゃありませんか。ねえ。

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タイトル出オチの割には長くなったけど、いい映画(映画に限らず文学、絵画、音楽、漫画も)って、語りたくなるよね!いろんな人が語っているにもかかわらず自分もなにか言いたくなるのが、名作ってものなんでしょうね!!!

ではーー!!