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映画「フェイブルマンズ」を観てスピルバーグの才能にひれ伏す

やっぱスピルバーグは天才だな~~~!!!!(スピルバーグの映画を観たあとに毎回言うやつ)とか思っていたら、「いやそんなこと、自分がいちばん知ってますけど??」ってスピルバーグに言われる映画だった『フェイブルマンズ』!!!!その通りだな!!!

……。

スピルバーグ、いつもチャレンジングな映画を撮るから追いかけきれないんだけど、今回もまた挑戦的な映画をつくったわね…と思いました。よね!?スピルバーグのことをあまりにも理解し過ぎている、スピルバーグ。いや何言ってんだとお思いでしょうが、作り手が、自分自身のことを完璧に理解したうえで自分の映画を撮るの、ちょっとすごくないですか??

おそらくスピルバーグは、自分に向けられた批判も賞賛も、ぜんっっぶ完全に理解していて、それでもなお、「いや自分の才能は自分が一番よく知ってるし」って言ってる!!気がする!!!

あと、スピルバーグは自分のために映画を撮ってるんだなあというのもしみじみ思い知ったというか。スピルバーグ自身が欲しいもの、恐れているもの、興味を持ったものを分析し、理解するために映画という手段を使っているということが本作を観ると良く分かる。そのテーマは、社会問題だったり家族のことだったり技術的な課題だったり色々なんだけど、スピルバーグが撮りたい題材の中で、世の中の関心や需要に合致しているものに(おそらく)資金が集まるので、完成した映画が話題になって世間の潮流を変えたりするけど、スピルバーグ自身にとっては、そのあたりは完全に関心の外なんだろうな、という気がする。

いやだって、その一挙手一投足が注目されている世界一有名な映画人にしてはあまりにもこう…目立たないというか…賞レースとかをパフォーマンスの場として活用するでもなく、言動が派手なわけでもなく、物静かな文学青年っぽい雰囲気のまま巨匠になっちゃった、みたいなさ。まあスピルバーグは生まれたときから巨匠だが…(?)。

良くも悪くも、その影響力に比して”社会活動家”ではないよなあ、という話です。もっと下の世代の映画人だと(たぶん同世代でも最近は)、その影響力を意識して話題性のある活動にコミットしている話が日本にいてさえ耳に入るが、スピルバーグのそういう話、ほとんど聞かないよね??それが映画ファンから見ると歯がゆいときもある、という意見を見かけて確かになあと思ったものです。ハリウッド映画界の構造的な不平等や搾取に切り込める立場なんじゃないの?ということですね。あるいはもっと世界的な、気候変動や人権問題でもいいけど。それは本当にそう。ただし今のところスピルバーグを断罪するような話も聞かないので、本当に純粋に”映画職人”なんだろうな、と思うのです(褒めても貶してもないよ、念のため)。

公平を期すと(?)、スピルバーグは大規模なジェノサイドやゲイフォビアへの反対姿勢は割とはっきり表明してますね。最低限、利用されないように気を付けている、という感じですが、まあそれでも。

それから、こんなにもパーソナルな映画にさえ、エンタメ的要素を隅々まで詰め込むのもスピルバーグが映画は本質的に虚構の見世物だと考えているからでしょうね。いや分かってはいたが、あまりにも。実の妹さんたちが本作を好意的に迎えているようなので、一介の観客からは、楽しませてくれてありがとう…、としか言えねえのよ。

ということで、以下は『フェイブルマンズ』の具体的な内容を挟みつつスピルバーグは天才だなあ~~という話をしております。自分はただの映画好きなので分析とかは無いです、浅いファンがちょっと打ちのめされただけです、はい。

↓『フェイブルマンズ』について知りたいことがほぼ書いてある記事。

www.hollywoodreporter.com

ポール・ダノをキャスティングした経緯が興味深いのと、ミシェル・ウィリアムズがオファーを受けたときの感想にちょっと感動するのでぜひ。

こっから先、ネタバレしますので!!!ネタバレが面白さを損なうような作品ではないけどね!!

家族を演じたキャストのこととか

スピルバーグの芸術的な才能は、上手く家庭に収まれなかった芸術家の母親から受け継いだものだという話が映画の中で何度か語られていたが、それと同時に有能なエンジニアであった父親からの影響もめちゃくちゃ大きいのではないか…と思った。映画の中では明確に肯定されるわけではないけど(言及はある)、スピルバーグを偉大な映画監督にした発想力、企画力、実行力は、仕事で成功した父親の美点だったんだね。父親自身は、少年が父親の才能を受け継いだこと自体は祝福しているが、『フェイブルマンズ』は芸術が実生活と相容れないことや、むしろ現実を破壊し得ること、に焦点を当てており(それに早々に気付きながらも映画を生業にせざるを得なかったスピルバーグの業の深さよ)、父親が、映画人としてのスピルバーグに直接的に影響を与えたというふうには(映画の中では)なっていないんだけど。あと、現役の映画人の中ではスピルバーグが撮影技術に最も精通しているという技術志向も、父親からもらった才能・性格だよね。

『フェイブルマンズ』、確かに芸術が現実を改変したり破壊したりするんだけど、芸術と生活が対立的にならないギリギリのバランスで描かれていてそれもすごかった。実生活を支える父親と芸術へ引っ張られてゆく母親、それぞれが複雑な陰影のある人間として存在していて、どちらが良いとか悪いとかいう価値判断を許さない脚本、演出、演技が素晴らしかったわね。

っていうか、ポール・ダノ、めっちゃ良かったよね!?いやポール・ダノが良くなかったことなどないが…(たぶん)。撮ってるときで37歳!?マジか~…。なんかエキセントリックな役柄が多いイメージあるけど、何でもできるタイプの表現者でしたね、失礼。自分はどちらかというとポール・ダノ演じる父親寄りの人間なので、芸術家人生を歩む家族を見つめる表情や仕草、その喜びや葛藤や苦しみに、なんかこう、グッときましたね…。

ポール・ダノの話を書いていて気付いたが、こういう夫婦役で、男性側の俳優のほうが実年齢が下なの、ちょっと珍しい気がしますね??ポール・ダノ1984年生まれで、ミシェル・ウィリアムズが1980年生まれ。安心感とフレッシュさを両立させている素晴らしいキャスティングだと思うが、良くこのメンツを集めたよな、さすが巨匠だぜ。

キャスティングと言えば、ベニーおじさん役のセス・ローゲンスピルバーグのご指名で決まったらしいが、そんなに似ているのだろうか、おじさんに。セス・ローゲンがセットでお芝居をしているときにスピルバーグが涙ぐんだのを見て、「監督を失望させた、クビになる」と焦ったらしいエピソード(Seth Rogen says he thought he was going to be ‘fired’ after making Steven Spielberg cry on The Fabelmans set | The Independent)、セス・ローゲンいかついのにかわいいね…。しかしスピルバーグは、たとえ俳優の演技に失望したとしても眉ひとつ動かさずに「使えるシーンあるかな…」って撮れ高のこと考えてるタイプだと思うぞ。知らんけど。

 

凝った撮影、意外とドライな演出とか

ところでこんなパーソナルな題材なのに、情緒に流されそうなところをバチッと切って、撮影技術がどれだけ凝ってるかでそのシーンの位置づけを語る、みたいなことを随所でやっていてすごかったですね!?

いちばん衝撃的だったのは、母方の祖母が亡くなった後、ピアノを弾く母親と、その音をBGMに主人公のサミーがキャンプのフィルムを編集するシーン。サミーをぐるっと360度方向からワンカットで撮るのと、母親の表情にフォーカスしていくカットが対になってるのかな?と思うんだけど、母親のほうは鏡像で寄っていくので、どちらもカメラがどこにあるのか分からない感じの映像になっていて、没入感というか、観客が彼らの人生に参加させられる感じがすごいのよ。で、物語上でもすごく重要な場面なんだけど、カメラを動かしきったら、そこで割とバサッと終わるんだよね。余韻とかない。その前後の、病室や上映会のシーンでも、表情を長々と撮ったりせずにぱっとシーンが切り替わる。起承転結が終わったら終わり!ていう強い意志を感じる。

…ラストカットでも思ったが、もしかしてオチをつけないと死ぬ呪いにかかっているのか、スピルバーグ

ボリスおじさんとの鬼気迫る対話も、ベニーおじさんとの感情が迷子になるようなお別れも、なんか気の抜けたような感じのオチで終わらせてて、緩急の付け方がなんかもうめちゃくちゃ上手い(もっとマシな褒め方はできんのか)。だいたいベニーおじさんとのあのカメラ屋の場面、あんなに凝った構図で撮る必要ある!?いや観客としては楽しませていただいて有難いのですが!

そういう感じでずーっと、物語が動くところ、撮影技術の極みを堪能するところ、軽やかな音楽を聞かせるところ、が絶え間なく入れ替わりながら続いていて、映画に飽きるヒマがない。90分くらいのサスペンス映画を観ているときみたいな、途切れない緊張感がずっと持続して、しかしその緊張は木漏れ日の下でのウォーキングのように心地よく、強度のコントロールが絶妙。2時間31分の静かな人間ドラマを、あっという間みたいに感じさせるのすごいよな…やはり巨匠は天才だな!!(何回も言う)

 

スピルバーグの過去作との関連とか

まあ巨匠のフィルモグラフィとの関連については有識者の皆様にお任せするとして…(言うてもそんなに観てないからな)(え?)

色んなところで指摘されてる初期の傑作『激突!』っぽい映画との出会いとか、『未知との遭遇』で、家族の誰にも理解できないものに熱中して遠くへ行ってしまう父親とか、なるほど…って感じでしたが、個人的に気になったのは、クローゼットの扱いですね。最初は、自分の撮ったフィルムをこっそり上映する”素敵な秘密”の場所だったのに、最後に出てきたときは、家族の誰にも言えない秘密を閉じ込める場所になっていて、『E.T.』でクローゼットが子供たちだけの場所だったのを思い出して切なくなった。少年の無垢な子供時代は、クローゼットの中の秘密と共に、心の奥に閉じ込められてしまったみたいだった。

あとスピルバーグ作品で指摘されがちなこととして、ロマンスの描き方が下手、っていうのがあると思うんですけど、実際そんなに上手くない…っていうかロマンス描写が下手なところが好きなんかもしれん、自分。……。

…えっと、それで恋愛描写が苦手だからとりあえず最後に男女がキスしときゃいいと思ってないか?っていう批評に対して、(劇中で)「ヒーローの物語の最後は、相思相愛のロマンスで終わらなきゃね」みたいなことを被写体になった少年に言ってて(台詞ではそこまで言ってないけどだいたいそんな感じ)、なるほどそんな義務感が…って感心しちゃったよ。これ、この場面の直前にサミー自身が女性関係に全く疎いせいで振られてるから、自分が持っていないもの全てを持っていそうなイケてる同級生には美しい恋愛エンドがなくてはならない、っていう気分なのも分かるんよね。そういうとこ、嫌いじゃないぜスピルバーグ…。

あと女性の物語を撮るのが苦手、っていう指摘に対しても、劇中で妹たちに「もっと女の子を出してよ!」って言われてましたね。分かってるんじゃん、スピルバーグ。まあ内気な文学青年だからな…。ちなみに『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』のメリル・ストリープはすごく良かったので、その弱点もがんばって克服したのであろう、たぶん。

 

映画を撮る側の功罪とか

『フェイブルマンズ』の中で、繰り返し語られているのが「映画と現実の関係」だと思うんですけど。

最初は、「列車を壊さなくても何度も衝突の場面を観ることができる」ような、現実を(多少の誇張を含みつつ)そのまま映しとる技術として(妹たちとの自主制作、引っ越しの記録などはその延長にある)、次に現実を思い通りに変えるツールとして(主役の少年たちをヒーローにしたり、俳優や観客の感情を動かしたり、サミー少年の社会的地位を上げたり)。

そうやって上手く使えるようになった途端に、カメラは撮影者の意図を裏切り始める。見たくないからこそ見えていなかった家族の秘密が映っていたり、カメラの前に立ったヒーローが、物語に没入し過ぎてカットの声をかけても演技(もはや演技ではない演技)をやめなかったり。

その後、そういうカメラの力をコントロールできるようになったかに思われた高校最後のイベント撮影で、そうやってカメラに映るもの、映画に必要なもの、を自在に選択できる能力は、ただそこにあったものをそのまま撮るだけでも、被写体にとっては暴力的でさえあるということを知る。あのプロムでの上映会シーン、解釈が分かれそうではありますがね!!!というか、自分はいまだにちゃんと咀嚼できている気がしません。

あの金髪美丈夫ローガンくんは、カメラに映った自分を観て、本当は、何に動揺したのだろう?サミー少年から無自覚に向けられた欲望を嫌悪したのか?(群衆の中にいてさえピントを彼に合わせていたよね)サミー少年が写した自分と、現実の自分との差異に絶望したのか?(でもサミー少年にはそう見えていたんだよ)自分と同じ姿をした美しい神の偶像に熱狂する大衆を恐れたのか?(君にはカリスマ性がある…)

あんなにも尊大で自信に満ち溢れた彼をして「あんなの俺じゃない」と言わしめるサミー少年の恐るべき才能、それをあの時点で最も理解していたのが、学園ヒエラルキーの頂点をただただ謳歌しているように見えたローガンくんだった、という話なんだよね、たぶん。そして、シンプルだけれど圧倒的なカリスマとして撮られたことにより、ローガンくんの複雑な内面が引き出されるという、もはやサミー自身にも制御できない映画の暴力的な魔法。だってサミーは、ローガンくんがそんなに繊細な鑑賞眼を持ってるとは思ってなかったはずなので。

でもその映画の魔法によって、彼ら自身さえ無自覚だった(と思う)複雑で繊細な感性を、それまで縁遠かった男同士でさらけ出すという奇跡みたいな瞬間が訪れて、唯一無二の美しい交流が生まれていて本当に素晴らしかった。二人が清々しい笑顔で別れたのも、少なくともあの瞬間は、互いの巨大な才能や精緻な感受性を認め合う、本質的な出会いができたからだよね。まあだからそっちが、本当の映画の魔法だったのかな…現実に介入する映画の魔法。使う人間によって、悪い魔法にもなり得る強い力。

 

その他のことなど

しかし本作で描かれる、映画の最大の功績にして罪というのは、サミー少年をもう常に映画のことしか考えてない奴にしちゃったことですよね!ボリスおじさんの言う通り、芸術というライオンの口に魅入られて、そこに頭を突っ込んだ奴はそのことしか考えなくなるんだよ!家族が悲嘆にくれていても、大喧嘩をしていても、それをどう撮るかを常に考えている少年、まあでもあのラストシーンは多幸感に溢れていて、良かったね!!ってなるけどな!こっちは無責任なただの観客なので、サミー少年が元気いっぱいなのは喜ばしい限りですが…。

っていうかあのラストよ!やっぱりオチをつけないと死ぬんかスピルバーグ!!!水平線の高さ(←マジのオチなのでいちおう反転)をひょいってずらして笑わせにくると同時に、「これは作り話だからね」って念を押してくる周到さ!!!その匙加減!!上手すぎるんよ!!くっそ…こいつ楽しそうだな……。

はい!!!いい加減、長くなったのでこの辺りでしめようと思います!!スピルバーグへこんなに思い入れがあったなんて自分でもびっくりだよ…うぅ。

感動作っぽい宣伝されてるけどぜんっぜん一筋縄ではいかない『フェイブルマンズ』、めちゃくちゃに面白いのでみんな観よう!!もう終わりそうだけどね!!!

では!!!