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映画「パワー・オブ・ザ・ドッグ」を観てアメリカの野生を思う

新年早々カロリーの高い映画ばかり観ていて脳みそがややお疲れですこんにちは。

まあ、これは、書くよね……大変だったね……ではさっそく、

本稿では!重大な!ネタバレを!しますので!!

ネタバレ!!

注意!!

いいね!?言ったからね!?!?!

で「パワー・オブ・ザ・ドッグ」ですよ。

賞レースでタイトルを耳にするようになってからも、覚えにくいな!と思ってあんまり頭に入ってなかったんですけど、観終わって思ったのは、これは……確かに翻訳するのは難しいな……、でした。かと言って意味が分からないのも勿体ないと思うんですけど…まあヤバい邦題になるよりはいいか…いいのか…???

タイトルが聖書からの引用であることはラスト近くではっきり示されるので、解釈は聖書通りの意味でいいと思うんですけど、犬は聖書では野蛮なもの、人間が制御しえない野生の悪しき暴力の象徴みたいな、聖書が良きものとして扱う”理性”とは対極にあるもののことですね。ではこの映画で描かれる”野蛮な力”とは何か、タイトルは何を示すのか、ということなんですけども。

ところで気になるのは、英語圏かつキリスト教圏の人々は、このタイトルは聖書の詩句だとパッと見てすぐわかるのか、それともスラング的な意味のほうが先に想起されるのか、どっちなんだろうね?ということです。ただの興味本位ですが。どうなんでしょうね。

 

ストーリーと登場人物について思うことなど①兄弟

本作、1920年代のモンタナ州で牧場を経営する兄弟の物語なのですが、兄のフィルを演じるのがベネディクト・カンバーバッチ、弟のジョージがジェシー・プレモンスで、この二人の佇まいが素晴らしかったですね~!そりゃ各賞ノミネートも納得ですよ。隅々まで計算しつくされた繊細な演出、美しい大自然を映す映像美、引き締まった展開、すべてが一級品でした。

兄は粗野で威圧的だがカウボーイたちの信頼も厚い牧場のリーダーで、弟は地味な事務方という風情で、互いに不満はありつつもなんとなく上手くやっていたところに弟が未亡人と再婚することになり、危うい均衡が崩れて…という、要約すればそういうストーリーです。ただ物語を駆動するキーになるのは、未亡人のローズよりもその連れ子のピーターでしたね(後述)。

映画の前半、兄のフィルがその的確な統率力で粗暴なカウボーイたちを束ねて牧場を運営し、その維持に執心しているのに対し、ジョージは服装も略式の礼装だし、カウボーイたちとも馴染めていないし、心ここにあらずという風情で、最初、牧場をどこかに売り飛ばす算段でもしてるのかと思った(結局そこまでの野心はなかったんですが)。

そういう構図だけを観ていると、フィルのほうが剝き出しの野生のような、野蛮そのものみたいな男なのに、途中で本当のインテリは弟ではなくフィルのほうだと明かされる(序盤から色々な描写で示唆されてはいたけど)。ジョージは知事夫妻と自分の両親(知事にインテリ夫婦だと言われてる)の会話にさえついていけずに兄に助けを求める。

(ところでローズは?元夫は医者だけど飲んだくれで、妻に知性を求めないタイプだったのかもしれない。まあ寡婦でもインテリだったら学校の先生とかの職がありそうだよな、フロンティアの町だったらさ。こないだから西部劇を立て続けに観てこの時代の解像度が微妙に上がってるんですよ!)

でもフィルは野蛮な男として生きていくことを選んで、それはメンターであったブロンコ・ヘンリーへの思慕とか自分の中の獣性のようなものを昇華する場を探していてそれを見つけたから、という理由なんだと思うけど、それなのに、あるいはそれゆえにソフィスティケートされたものたちを憎んでさえいる。

ジョージは?優しくて堅実だけど、兄ほどのインテリではなく(たぶん、両親が兄だけに期待をかけてリソースを割いたのだと思うが)、カウボーイを統率する力量もなく、兄に従属せざるを得ない牧場を出て独立するほどの気概も野心もない。という風に解釈したんだけど、ちょっとフィル視点に寄りすぎだろうか。でもこの弟は、兄の知性や人間性を誰よりも理解していてそれを愛そうとしてるんですよね、それで余計にフィルに疎まれるんだけど…。

 

ストーリーと登場人物について思うことなど②ピーター

だからまあフィルがピーターを(きっかけは何にせよ)気に入ったのは必然なんだよな。

少なくとも、ピーターを取り巻く3人の大人たちの中でピーターの良き理解者となり得たのはフィルだけだったはずだけど、ピーターはそれを拒んだ。ローズへの愛ゆえに?たぶん違うな、(ピーター自身は愛だと思ってると思うけど)それは愛ではなくてまさに”犬”の執着で、ピーターが目的を果たすために選んだ冷徹で残酷な手段がそのことを示している。フィルはピーターのそういうところも理解していたと思うけど、その暴力性が自分に向けられると思ってなかったのは何故なんだろうな。同胞ゆえに目が曇ったか?

あと、自分の内なる野蛮さ(≒犬の力;後述)に屈したピーターは、どんな大人になるんだろう?フィルはそれを牧場というフロンティアで(微妙なバランスの上とはいえ)飼い慣らすことを教わって、そこで生きていくことを選んだけれど、ピーターは?

それにフィルには、弟という、理性の此岸に繋ぎとめてくれる錨があったけど、ピーターにとってそうなり得る存在はいるのかな…友達出来たって言ってたからそいつがそうなってくれるといいね。

だいたい、フィルを失ってあの牧場が経営できるとは思えない。だから牧場を早々に売り飛ばすとしても、あのインテリ一家が持っていた富を食い潰して零落するだけの未来しかない。ピーターはそれでも別にいいんだろうけど、貧乏生活にローズが耐えられるとは思えないので、財産が尽きるのが先か、ローズが死ぬのが先か、みたいな状況が確実に来る。そのときに、ピーターは何を考え、何を選択するのか?まあ私の手には余るのでこれ以上は考えませんが。

ここまで書いて思い出したけど、最後のシーンで、ピーターが窓から見下ろす構図になってたのはめちゃくちゃ象徴的だったな…なるほどな…そこはフィルのポジションだったのよ…。

 

”犬の力”とはなにか

というようなストーリー展開を踏まえて、”犬の力”を、孤独や嫉妬によって引き起こされる破局的な暴力と考えることもできるだろうけど、個人的には、人間がそれぞれに抱えている内なる獣性、野蛮さ、暴力的な志向のことだと捉えています。ただそれが、発現するようなきっかけと環境がそこにあっただけ。

だからメインビジュアルの、フィルが背中に”power of the dog”の文字を背負っているような構図、あれはフィルの生き様そのものを表していたんだなー、と。忌まわしい破滅的な力と志向を持って生まれ、誰よりもそれを自覚し、それによって死んだ男。ただ、聖書では忌むべきものとされる”犬の力”を、単純にそういう風に描かないのがこの映画のポイントかなと思いました。それはもう、ベネ様の繊細な演技と、監督の達者な演出と、無駄のない脚本の見事な達成だと思います。

映画の中で引用された詩篇(「私の魂を剣の力から、 そして私の命を犬の力から助け出してください」)をそのまま理解すると、フィルの野蛮な(前時代的な)暴力性から、未来あるジョージ夫妻やピーターが守られたことを表しているとも言えるんだけど、ただ、あえて旧約聖書詩篇から直接ではなく、葬儀の祈りの一節として引用されたところに着目すると、死者であるフィルにかけた祈りの言葉だと考えることもできる。つまり、フィル自身を”犬の力”から守って欲しい、という祈りだとすると、その場合の”犬の力”とは何か?フィルが、彼自身の内なる獣性に呑まれたことを惜しんでいるのか?それともピーターの暴力的な志向の犠牲となったことを暗示しているのか?まあ両方かな!!!!(責任逃れ)

ちなみに”犬の力”を聖書の文脈通りに「異端者や異教徒による迫害」と解釈すると、救いが無さ過ぎるんでちょっと無理…。だってそれだと、フィルが(他の三人を迫害する)邪悪な異端者ってことになってしまう。そんな馬鹿な。なんかそういう解説記事を見かけたので一応。フィルだけじゃなく、四人全員、ただの罪深い迷子だったと思うよ。フィルが異端なら、みんな異端だよ。この映画にこの詩篇の言葉を唱えるに足る無垢なる者は出てこないので、まあ違うかな、というのもある。ピーター自身が、自分の中の野蛮さを制御し、封じることができるように、という意味で唱えた(唱えるべき)祈りだという解釈はありだと思うが。

 

フロンティアの境界上で

いろいろ考えるにフィルの死は、フロンティアの境界線で起こるフリクションそのものなのだな。

ニュージーランド出身の監督が撮ってるからちょっと解釈が違うかもしれないけど、ストーリーが原作準拠だとしたら、物語自体が表現しているのは、アメリカ人が愛してやまない、剝き出しの野生との邂逅と別れ、失われたそれらへの哀惜の念。野性の暴力的な美しさや残酷な力を、人間の知性の力と(人間はそれを認めないが確かに存在する)野蛮な衝動で捻じ伏せてきたことへの贖罪の意味もあるのではないか。

モンタナの圧倒的な大自然、広がる荒野、牛や馬の躍動する身体、それらを丁寧に、詩情に満ちたタッチで描いたのは、そういう意図があるのかなと思いながら観た。今はもう失くしてしまった、手付かずの生々しい自然をスクリーン上に描いて追悼するような、そんな美しさがあった。

そしてフィル自身も、家の中や牧場にいるよりも、広々とした瑞々しい自然の中でこそ伸びやかに自由に振る舞い、そのしなやかな美しさを見せるのは、フロンティアの境界の、外側に踏み出してしまった人間だからなのかなと。それゆえに、内側に留まって、人間社会の変化に対応しようとするジョージとは本質的に相容れず、最後には新しい時代の力に屈する。かつてフロンティアで人間と対立して滅びたオオカミのように。

 

その他に考えたことなど

でも女性の監督だからかもしれないけど、”弱い女”であるところのローズの描き方のバランスが絶妙だったな。彼女の弱さを断罪はしないけど擁護もしない、微妙な距離感。フィルがローズのことを反吐が出るほど嫌いなのも、ジョージのような男が彼女に惹かれるのも、めちゃくちゃ納得感があった。葬式のシーンで兄弟の母親から貴金属を譲り受けたときのあの表情はちょっと忘れ難いですね。

で一個だけ、世の中(?)の映画評でわかんないところがあるんですけど、この映画、「三角関係を描いて」るの!?えーと、誰と誰と誰が???4人(+1人)おるけど??いや愛憎が複雑に絡み合ってるのはわかるけど、これを”三角関係”と呼ぶのか??分からん、なんもわからん。恋愛感情そんなにあったっけ????まあ自分は恋愛映画の機微がまったくわからん人なので、もう何も分かってないだけなんだと思いますがね…それにしてもね。

あとは、なんか「ゴールデン・リバー」は”柵の外側”の話だったけど「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は”柵の内側”の話だったなあ、とか。そういうことを考えていました。

 

ま、まとまらねえ~~~~

いやいい映画でしたよ!みんな(?)はもうとっくに観た??こちらは新年早々、えらいことですよ!!

では!!!!!