「白い牛のバラッド」ご覧になりましたかみなさん!?!!
夫が死刑判決を受け刑が執行されてから一年、娘と二人で慎ましく暮らす女性が、その判決が実は冤罪だったと知らされる…
個人的には初めてのイラン映画、何もわからなかったらどうしよう…とやや不安に思いながら鑑賞しましたがすごく良かったです!!ジャンル的には社会派サスペンスということになると思いますが、派手な描写はほぼ(全く)無く、主人公の女性の日常のルーティーンと身近な人々とのやり取りが中心の、静謐と言ってもよいくらい静かな映画です。しかしながら、その”日常”を構成する様々な社会構造の瑕疵や顕在/潜在する不公正、不正義を鮮烈に炙り出すテクニカルな語りが見事で、緊張感の途切れない緊密な作劇に引き込まれます。その中で浮かび上がるひとつの”謎”…、まだ見ぬ結末に向かって小さなドラマを緻密に積み上げ、ラストで驚くべきカタルシスをもたらす脚本が素晴らしかったです。
あと、とにかく精密に幾何的に構成された画面が美しいんですよね!端正で硬質な、それでいてドラマティックな予感を想起させる遠景。鏡や窓枠などで様々に縁どられたクローズアップ。不要な要素が削ぎ落され、まるで詩のように緊密に構成された各シーンは、一瞬たりとも目が離せない映画ならではのミニマムな豊かさに満ちていて、本当に一見の価値ありと思います。メインビジュアルにもなってるあの印象的な牛のシーンは後述…。
ミニマムといえば、この映画には劇伴が無いんですよ。確か。会話や場面にかぶさってくるのは登場人物たちが意識的に流すカーステレオの音源と、居間で観ている映画の音くらい。その代わり、生活音というか日常風景の中の音がものすごく丁寧に拾われている。圧迫感のある地下鉄の走行音や工場の機械音、激しい雨音、静かな生活に侵入するインターホンやスマホの呼び出し音、日常の場に重なる風の音や衣擦れ…。音楽が無い分、登場人物たちの心情やその場面の意味、物語の流れを俳優の繊細な演技や散りばめられたメタファーから読み取ることになり、それこそ詩を読むような集中力を求められるのですが、それだけの意味が込められた映画だと思います。
音の演出を際立たせる重要な要素の一つが、主人公の娘(8歳くらい?)が聾唖であることなのですね。少女は利発で確固とした意思を持ち、人生を切り拓く勇気のある人間として描かれている(それは母親である主人公との共通点でもあります)。ただ、耳が聞こえず話せないため、母親とは手話でのやりとりが中心になり、心休まるはずの団欒のシーンでさえその場は静まり返っています。それゆえに観客は容易に緊張を解くことができず、その次に何が起こるのかを、息を詰めて見守るしかないのです。ほっと力を抜くような温かいシーンもあって、でもそれも次の展開への布石になっていたりするのですよね。
という感じで、とにかく全編にわたって構成と演出がめちゃくちゃ上手い。
で、じゃあその出色の技術をもってして何を語るのか、ということなんですけども。
最初に紹介した粗筋のとおり、本作はある男性が死刑になるところから始まる映画であるにもかかわらず、原因となった事件や、その男性についての説明はほぼ無い。映画内の少ない会話から類推するしかないのですが、観ているうちにそれ自体がこの物語をドライブする”謎”ではないのだなということが分かります(登場人物のほとんどにとっては自明のことでもあるし)。でもその、もう口にされない人物の不在が、主人公の人生の枷となって重くのしかかる。不条理とも言える社会制度によって家族の一人を失い、そのことによって家や子供まで取り上げられかねないという、社会構造の不合理がいっそう際立つ仕掛けになっていると思いました。
あるいは、ラストシーンの解釈について。
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※こっから先、本格的にネタバレしそうなので気になる方はご注意ください!!
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映画の冒頭で引用されるコーランの「雌牛の章」67節は、殺人事件の罪を贖うために雌牛を屠るよう預言者が指導したというエピソードを指すのだそうです(ざっくり理解)。さらに、イランにおける死刑制度の根拠となっている同害報復の原理も、この章の別の場所に示されているということで(このあたり、完全にパンフレットから得た知識です、素晴らしいパンフレットありがとうございます)、一頭の牛が佇む抽象的な夢のシーンとともに、本作のテーマそのものだと考えてよいと思います。
それを踏まえて、ラストの解釈を考えるとですね。
親子の生活を助けることで己の贖罪を成そうとしていた判事と、主人公はどのように向き合ったのか。牛乳の使われ方を考えると、判事はコーランに書かれた雌牛と同じ運命を辿ったと考えるのが自然かとは思う。無実の人を判決によって殺した罪を贖う犠牲、あるいは同害報復の顛末。どっちもあり得る(ちなみに観ているときは「雌牛の章」の意味が分からなかったので、後者のほうしか考えていなかった)。
ただ他の人の解説や感想を読んでからなるほどと思ったのは(パンフレットの解説にもあるのだけど)、確かに主人公が判事と決別したこと自体は事実だけど、映画では描かれなかった”別れ”があったのではないか?という解釈です。確かに、食卓をとらえたラストショットは遠景で、確かなことはなにも分からないんですよね……も、もう一回観たい…。前段で書いたように犠牲や同害報復の意図であれば、それは主人公を抑圧する現在の社会システムに乗ってしまうことになるので、すこーし違和感があるのですよね。だから映画で描写された内容が現実の出来事かどうかに留保をつける解釈を読んでなるほどと思ったわけです。
主人公は、社会的要因によって抑圧され、様々な機会を奪われながらも、自分の人生を決して手放さない強い意思を持つ女性です。経済的に自立し、娘に向き合い、夫の死に対しても、金銭的解決ではなくその名誉回復と判事の謝罪だけを望む彼女が、改めて”犠牲”を欲するだろうか?という違和感ですね。あと、冒頭に「雌牛の章」と白い牛のショットを持ってきてテーマを明示し、かつこのストーリーなので現状追認的なオチにするだろうか?という疑問もありますね。ただこの辺り、イランの伝統的な死生観やイスラムの宗教哲学に加えて監督含めた製作者の意図、主人公の人生観などがグラデーションとなって表現されている部分だとも思うので、正直なんも分かりません…。
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※いちおう、ネタバレ終わり!!!!
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あとは、この映画を観終わったあとで、世界中に遍在する女性への社会的抑圧を、本作に無防備に重ねるのは違うだろうな、とは思いました。イランは映画に対しても検閲が非常に厳しく(本作も国内ではほとんど上映できていないらしい)、政権や宗教に対して批判的な言説、暴力や異性間の接触の直接的な描写を注意深く避け、その制約の中で物語を紡いだ結果、本来意図されていた以上の普遍性を獲得したと考えたほうがよいかもしれない。それが映画にとって幸運なことかどうかは分からないけど(分からんことばっかりだよ!)。もちろん、国内での上映が危ぶまれる以上、海外で上映されることを大前提としてつくられた映画だと思います。そのおかげで海外の映画祭で高い評価を得て極東の島国の地方の映画館まで来てくれたわけで、良かった!!!
なんかこういう、ローカルな手触りのモチーフを徹底的に磨き上げて、普遍的な人間の真理や現代社会に内在する共通的な不合理に触れるような創作物に出会うと、人間やってて良かったな!って思いますよね。良い小説とかを読んだときにも同じことを思う。
本作のチャームポイントというか個人的な好きポイントとしては、映画好きの人が作ってるんだな~というのが分かるのもとても良い。映画好きの登場人物が出てくるとそれだけでちょっと映画自体のことも好きになるじゃないですか、本作、映画好きキャラが主人公の娘である聾唖の少女で、古い映画をテレビ画面で真剣に見てるのとか、映画館に行くのをものすごく楽しみにしてるところとか、グッときますね。現在の困難と、拓かれた未来への予感を象徴するような、素敵な女の子に愛される映画文化というのは、良いものなのかもしれないなと思わされますね。
はい!
そういうわけで非常に面白くて志の高い良い映画なので、みんな観よう!!と言いたいところですが、現状では観る手段が非常に限られており……困ったね……。
まあまだ観てない人はどうにかして観てくれよな!
よろしく!!
では!!!!