窓を開ける

今のところ映画の話をしています

映画「レヴェナント:蘇えりし者」を観てイニャリトゥ監督にモヤる

※本稿では、前半で映画を褒め称え、後半で監督にモヤっています。

いやすごい映画ですねこれ!?

劇場公開当時も話題だったけど(アカデミー賞発表後の公開だったしね)、怖そうだしレオ様にあまり熱心ではなかったのでスルーしたんですけど(あと当時は映画館に通う習慣が無かった)、大画面で観たらあまりの寒さと容赦ない残酷さに震え上がっただろうねえ!と思いました。

人間同士の憎悪の連鎖、剥き出しの自然の分け隔てない苛烈さ、血によってのみ贖われる愚行、儚くうつろう赦しと癒し。

画面に映るすべてが、抜き身の刃物のように鋭く観客の心を抉りに来る過酷さに、観てるだけでぐったり疲れた…という感想です。はい。広々と美しい景色や繊細な音楽を堪能する余裕も無かった。

だから映画自体の質やその評価には何の異論も無いです。素晴らしかった。ずっとびびって観てなかったけど、観て良かったです。レオナルド・ディカプリオについては、彼の過剰なまでのスター性が、荒々しい大自然と対峙することで、主人公が持つ強靭な不滅の魂の輝きそのものとなって美しく、圧倒的な存在感を放っており各賞総ナメも納得であった。こないだ「ギルバード・グレイプ」を観て若き日の溢れる才能の眩しさに撃ち抜かれたんだけど、その本質的な煌めきは20年を経ても(そして平坦とは言えない人生を歩んだのちにも)ダイヤモンドのように不変で、スターってすごいなあ!と思いました。

個人的には、ヘンリー隊長を演じたドーナル・グリーソンのバチ切れ演技が観れたのが最高でしたね(途中まで気づかなかったが!ごめん!)。ただでさえ色素が薄めなのに、雪山で漂白されたように白く血の気がなく、しかし野性味あふれ過ぎる荒くれ男たちを理性で統率する、文明と繋がる細い糸のような役回りで、感情と暴力に押し流されそうになる物語の骨格を支えていた。実際のアンドリュー・ヘンリー氏も細身で誠実で有能な人物だったようで(英語Wiki→ Andrew Henry (fur trader) - Wikipedia )、ドーナル・グリーソンへの見解が製作陣と完璧に一致した…と思いました。まあその文明や理性との繋がりを断ち切って、最後の大立ち回りに向かうのがレオ様とトムハなわけですが。なるほど。

本作において(原作や史実とは関係なく)、何がレオ様とトムハの運命を分けたのか?少なくとも映画の最初の時点まであの生業で生き延び、かつ指導的な立場にいることを考えると、二人の実務能力は(スタイルは違えど)拮抗していたのだと判断できるし、トムハが必要以上に反発する描写もそのことをある程度裏付ける。でもラストで、決定的に道を違えたのは何故なのか?ということを考えていたんですけど。

やはりレオ様演じるヒュー・グラスが、先住民女性との婚姻を通じて、自然との超自然的な回路を開いていたことが重要だったんだろうなと思いました。伴侶となった女性は回想とも幻覚ともつかないいくつかの短い場面で出てくるだけなんですが、生前はおそらくグラス(異邦人)と先住民の橋渡し役となっており、亡くなった後は自然そのものとグラスを繋ぐ巫女のような役割を担っているように見える。それは二人の子供であるホークにも言えて、死んでから精神世界での存在感を増し、グラスに進むべき道を示し啓示を与えていると見てもそんなに的外れではないと思う。

人間の力では抗えない大きな運命の流れというものがあり、それはときに過酷で、しかし無理に逆らえば惨めに死ぬ、というテーマは、イニャリトゥ監督のライフワークとも言うべき命題なんだろうなと思いました。

で。

こっから監督にモヤモヤしたところの話なんですけど。

よろしいか。

イニャリトゥ監督、間違いなく天才だと思いますけど(ここで自分が書くまでもないが)、去年と今年で「21グラム」と「バベル」も観たけど(「バードマン」は公開当時に観た)やっぱりイマイチ信頼できないんだけど、どうよ!?と思ってモヤモヤしているのでそのことについて書きます。モヤ~

引っかかってしまう最大のポイントは、それぞれの作中における子供の扱いですね。大人たちの愚行、思慮の足りない振る舞いや過ちのツケが全部!子供に負わされている!で、その様子を目の当たりにした大人(のうちの一部)が反省したり、人生をやり直したり、自我を取り戻したりするという……子供をギミック扱いするんじゃない、ていうね。初期作品ならともかく、「レヴェナント」でも似たようなことやってんな!!と思ってしまった。

史実のヒュー・グラスが生き延びたのは子供とは関係ないからね…少年が死んで、贄となって自然との回路を開き、レオ様が生き延びる、っていうのは完全に監督の創作なのでね。

子供が親の罪を贖い魂を浄化する、っていうのいい加減にやめい、と思うんですけど。最新作(2022年の)も評判いいらしいけど、どうでしょうね。

あと、モヤモヤポイントはもうひとつありまして。

突っ込んだ有形無形のリソースが、きちんと映画の質に貢献しているか?ということなんですけども。

いや「レヴェナント」を筆頭に、映画としてのレベルが高いことに異論はないんですけどね、ただこれを撮るためになにをどれだけ支払ったか、分かってる??ていうね。

だって割と過酷な撮影に慣れてそうなトムハが監督にブチ切れ製作体制の見直しを大っぴらに提言し、レオ様は低体温症との闘いだったと公言し、プロデューサー含むスタッフは大幅に入れ替わり…ていうのを聞くと、まともな職場じゃねえな、と思ってしまうじゃない。どんだけよ、と思って製作エピソードを拾うと、夕刻1~2時間のマジックアワーの間だけ撮影したとか、脚本の順番通りの撮影に拘ったとか、そりゃキツいだろうよ!アホか!!

この映画の後、レオ様は休業しちゃうし…アカデミー賞獲ったからていうのもあるだろうけど、撮影中に何回も風邪を引いて極寒の環境で過ごしたら、そりゃしばらく休まないと次の肉体労働はできないよ、と思っちゃうよ。

撮影順とかマジックアワーの自然光とか、本当にそれが無いとこの出来栄えにならないのか?レオ様が生肉を喰う必要はあったのか?本当に??ってなりませんか。イニャリトゥ監督、本質的に俳優のことを信頼してなさそうだな、とも思いますね。だから映画で撮りたい環境そのものに人間を放り込んで、欲しい表情の部分だけを使う、みたいなことを狙ってやってそう(根も葉もない憶測だよ!)。

まあ実はノーラン監督にも同じことを思っておりまして、拘りの方向性は違うけど、それ必要あったかな…ていうの「TENET」でまあまあ気になったんですよね。

ちなみに、同じ映像こだわり納期遅れがち系(?)映画監督の中でも、リドリー・スコットについてはあまりリソースの浪費と思ったことはないのよ、使った資源が全て画面の中に役割を持って収まっている感じがする。なんででしょうね。

例えば小説や漫画だと、一人の作家が、10ページの作品をアウトプットするのに必要なリソース(製作や編集の時間)と、1万ページの作品を完成させるのに必要なリソースが全く違うのは容易に理解できるけど、映画は90~180分くらいという枠組みがほぼ決まっているので、ちょっと事情が特殊ですよね。

映画にかけけるリソースと言えばいつも思い出す話があってですね。宮崎駿監督の「風立ちぬ」製作ドキュメンタリーで、数秒の群衆シーンを1か月以上かけて描いたエピソードなんですけど。担当されたご本人はあんなに頑張ってこれだけか…みたいな感じだったけど宮崎駿は仕上がりを絶賛していて、確かに、映画を観た人はそのシーンのことは絶対に覚えているであろう印象的な場面だったんですよね。しかも静止画ではなく動画でこそ映えるという意味でまさしく映画のためのシーンで、やっぱ天才は力を入れるところの選択眼がすげえなー、と思ったものです。

まあそういう感じですね。個人的にモヤっただけなんで批評とかでは無いです、単に自分の感性と合わないだけのような気もしますね。

ということで、なんか話が逸れてきたのでこの辺で終わりたいと思います。映画って本当に良いものですね!!

では!!