窓を開ける

今のところ映画の話をしています

2023年、映画館で観たドキュメンタリー映画について振り返る

師走だーーーーー!!!!!(「紅だー!」の感じでお願いします)

ぼんやりしていたら師走ですね!!!去年と同じこと言ってるよこの人。というわけでマジで総括の時期ですが、振り返ってみると今年はドキュメンタリー映画が豊作だったな~と思いましたので(個人的観測範囲において)、その話をします!

たぶんなんですが、ノンフィクション作品て興行的には厳しい場合が多くて、公開館数も観客数も少なめでなかなか一般人の感想を目にする機会が(作り手も観客も)少ないんではなかろうかという気がします。

自分も映画館でドキュメンタリー映画を観るようになったのは去年くらいからなので超初心者だし文脈が理解できていない場合も多いと思いますが、そんな奴の感想でも無いよりはあったほうが良かろう、ということでジャンルの盛り上がりを祈念して置いておきます。ちなみに教育テレビ(Eテレ)とかでやってるドキュメンタリーもけっこう好き。

本稿で(ぜんぜん関係ないけど”本稿”って執筆中の記事につかう言葉らしいので、厳密にはここで使うのは間違いかもしれない)言及する作品は以下の9本!(多いな)

『チーム・ジンバブエのソムリエたち』『モリコーネ 映画が恋した作曲家』『夢の裏側』『ナワリヌイ』『世界のはしっこ、ちいさな教室』『ぼくたちの哲学教室』『アダマン号に乗って』『燃えあがる女性記者たち』『アダミアニ 祈りの谷』

まあネタバレとかで面白さが減ずるような作品たちではないですが(そもそもがドキュメンタリーだし)、もう何も気にせず感想を書くので、未見かつ事前に何も知りたくない方は自衛してください。

どれも観て損はないのでね!こんなところに来てないで映画を観てよね!(言い草がひどい)

『チーム・ジンバブエのソムリエたち』

2023年の劇場はじめが本作だったんですよね~!思い起こせばドキュメンタリーに始まった1年であった。

南アフリカの難民事情については何も知らなかったが、本作の主人公たちがパリッとした服を着てソムリエとして勤めながら、この前までホームレスだったよ、とかレストランの裏庭の掃除を手伝うところから始めたんだ、とか、家族と離れた話とか、そういう身の上話をさらっとしてくれるのに打ちのめされてしまった。

しかし彼らは非常にガッツに溢れポジティブで、作品全体としてはもちろん成功譚なので、仕事始めに相応しい内容ではあります。ところでワインソムリエという職業であることは南アフリカにおいてはたぶん重要なポイントで、白人が上流階級を占めている社会で、あまり出自に関係なく才能と努力とチャンスがあれば社会の上層、ひいてはヨーロッパにまで連なる社会構造に食い込める、稀有な職業なのであろうと思われる。

似たようなテーマのフィクション作品でフランスが舞台の『ウィ、シェフ!』も観たのですが、難民とかのバックグラウンドが多様かつ資本を持たない移住者をどうやって社会に包摂するか、という社会的課題の切迫度を感じました。

 

モリコーネ 映画が恋した作曲家』

みんな大好きモリコーネの業績について、インタビューやら映像を駆使してしっかりまとめてあって非常に勉強になりました。生前のインタビューが間に合って良かったねえ。とにかく資料映像や映画の引用が豊富で、観たことのある映画でもこういう文脈で説明されるとまた違う良さや価値に気付く、みたいなのもたくさんありました。

いわゆる「純粋音楽」と比べて「映画音楽」は音楽業界では低く扱われており、モリコーネの現代音楽に対する貢献がきちんと評価されて来なかったのではないか、という問題意識が感じられましたね。なるほど…。

そこで思い起こすのは、ほぼ同時代を生きた武満徹ですよ(2歳差!)。もちろん音楽的に評価が高いのは自分でさえ理解していますが、映画音楽についてもかなりハイレベルの仕事をしてますよね(『切腹』とか)。それは武満徹自身や、当時の音楽業界にとってはどういう位置づけの仕事だったんだろう…というのが気になりました。その辺をまとめた評論とかどっかにあるんかな。

ところで本作と『TAR/ター』のおかげでなんかクラシック音楽業界のにわか知識が増えた1年だったですね。

 

『夢の裏側』

これはちょっとイレギュラーですが…。中国映画『シャドウプレイ』の撮影ドキュメンタリーを、ロウ・イエ監督のパートナーである映像作家マー・インリーが監督として撮ったものです。広州でのロケハンから編集作業まで、映画をつくるのって大変なんだな~…っていう(なんだその感想は)。「映画を撮る」ことに必要とされる覚悟が、日本とはちょっと質が違うよね。ロウ・イエ監督自身は(検閲について尋ねられて)「映画はしょせん映画だよ」って言ってたのが面白かったです。

 

『ナワリヌイ』

ロシアで最も有名な反体制活動家を追ったドキュメンタリー。事実は小説より奇なり、という慣用句がこれほど相応しいドキュメンタリーがあるだろうか。中盤からはスパイ映画か何かを見せられてるんかと思った。そして衝撃の(しかしそういやニュースで観たな、て思い出した)ラスト。割と淡々と、近年の活動やご本人のスピーチを捉えた映像作品ではあるが、あふれ出る人間的魅力や統率力に、これがカリスマか…てなりました。家族や周囲のサポートも、覚悟が決まっててすごかったです。

ロシアはどうなって行くのだろうか。とりあえず侵略戦争をやめて欲しいが。

 

『世界のはしっこ、ちいさな教室』

あまり学校制度が整備されていない世界各地で、初等教育に奔走する3人の先生の話!舞台になるのはシベリア、ブルキナファソバングラデシュです。

教育というのが、子供たちや彼らの属する社会にとってどれほど大切なことか、そして教師と生徒の双方にとってどれほど喜びに満ちたものであるか、そういうことが衒いなく映し出されていて、胸を打たれてしみじみと泣いてしまった。

自腹で購入したソーラーパネルを担いで、あるいは荒野にトナカイを駆って、また様々な立場からの反対の声を撥ねつけて、先生たちは子供たちに彼ら自身の将来と、共同体の未来を手渡すのですね。

教育は、人間社会を成り立たせるための本質的な営為である、というのが瑞々しい映像とともに伝わってくるよい映画でした。色々なところで広く長く上映されて欲しい作品です。

 

『ぼくたちの哲学教室』

北アイルランド紛争から続く住民同士の対立や貧困が地域の発展を阻んでいるベルファストで、小学生に哲学を教える先生の話!

「道徳」などという生ぬるい思想では歯が立たない、とてもシビアな状況(親類縁者が誰かしら最近の紛争で亡くなっている、学校を出ても仕事が無く暴力犯罪やドラッグ売買に巻き込まれる、知人に自殺者が多く、将来に希望を持てない、など)をサバイブするために、子供たちに本物の哲学を教えている校長先生。この校長先生もベルファスト出身で、かなり個性的なキャラクターの人物で、この人自身が、少年たちにとって数少ないロールモデルになっていることも分かる。

この校長先生をはじめとした先生方の献身と情熱に圧倒されましたね…幸福な人生のために、本当に必要なものは何か?ということを考え抜いた哲学の知恵を子供たちが身につけるべきだという信念も含め、素晴らしかったです。

親や兄弟が「殴られたら殴り返せ、お前のおじいちゃんは隣人に殺されたんだぞ」とか言うような家庭環境に育つ子供たちに、教育者が何をすべきか、何ができるか、ていう話よね。

ちなみにパンフレットがめちゃくちゃ充実していて、ちょっとした新書一冊分くらいの情報量があった。

 

『アダマン号に乗って』

パリ市内、セーヌ川に浮かぶように建てられた精神疾患者向けデイケアセンターの日々を捉えたドキュメンタリー。

フランスでも精神疾患を抱えた人たちを「普通の人」からなるべく遠ざけようという動きと、地域社会で包摂せねばならない、という運動のせめぎ合いがあったらしいが、本作で被写体となっているアダマン号は後者のひとつの到達点のように見える。医学的には「精度精神療法」という理論(?)の実践の場として運営されているらしい。

こないだ知的障碍者支援施設の事件を扱った邦画を批判した記事がちょっと話題になっていたが、自分はその邦画のほうを観ていないことを留保したうえで、このドキュメンタリーに描かれているのはまさに人間の生活そのものであると思った。それぞれが好きなこと、得意なこと、できること、できないことがあり、その範囲で役割を果たしながら「アダマン号」という場を運営しており、生活という存在自体に無限の価値がある。

社会のあちこちで人間性が疎外されていくこの時代に、アダマン号があることを喜びたい。世界がアダマン号のようであれば、私たちはもっと安心して年老いたり、傷ついたり、休憩したり、いたわりあったりできるだろうに、と思う。

文具で知られるコクヨが出している尖った雑誌「WORKSIGHT」20号にアダマン号の取材記事があり、パンフレットとはまた違う角度からの副読本になるのでおススメ。

 

『燃えあがる女性記者たち』

インド北部のあまり裕福でない地域で、女性だけの報道局で記者として働く女性たちの話!

そもそも女性が働きに出ることが良く思われない(配偶者や男性親族の能力不足とみなされるため)、下位カースト(またはカースト外)や女性の立場や権利は尊重されない、職業や学歴で大きな分断がある、などの何重苦かを気合と工夫で乗り越えて、地域社会の環境や労働問題、不公正に寄り添った報道を続けて人々の信頼を得ている彼女たちの姿に感銘を受けました。

スマホを使ったゲリラ的な動画配信や手作り感とスピード感あふれるニュース製作など、フットワークの軽い運営が印象的でしたね。

新書『インド残酷物語 世界一たくましい民』で読んだうねるようなダイナミズムの一端が垣間見れて良かったです。いや~、極東の島国から見ると何もかもが桁違いなんだよなあ~~~!

 

『アダミアニ 祈りの谷』

ジョージア東部の山岳地帯パンキシ渓谷に200年前から住むキスト人。チェチェンにルーツを持ち、固有の生活スタイルで暮らす彼らの生活を映したドキュメンタリー。

今年は『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』という可愛らしいロマンス・ムービーを観たのでちょっとジョージアに親しみが湧いており、この『アダミアニ 祈りの谷』は、ジョージア内でも特異な位置づけの地域を舞台にし、日本人監督が撮ったらしい、という前情報を得て興味を持ったので観に行きました。

背景の説明はややこしいので避けますが、地図をちらっと見るだけでも大変そうな地域であることが分かります。特に第二次チェチェン紛争(1999年~)のときに多数の難民を受け入れた頃から、欧米主導の「テロとの戦い」におけるテロリストの温床と目され、困難な立場に置かれたらしい。

そういうバックグラウンドのもとで、日々の生活や美しい景色を発信して無理解や偏見の払拭に努める人々の姿がメインではあるが、政治的にシビアな状況は新しい悲劇や対立を生むという現実も、カメラは映している。

本作は2019年頃までの話で終わっているのですが、このあとロシアがウクライナに侵攻し、イスラエルのガザ攻撃まで始まって、この映画に出てきた人たちはみんな大丈夫だろうか、と考え込んでしまった。撮影時点でさえ、家族になかなか会えなかったりムスリムだからと辛い目に会っていたりしたのに…。でもパンフレットに、監督自身による出演者へのインタビューが載っていて、2023年夏頃の様子がちょっと知れて良かったです。

あまり前景化はしていないが、「いま撮っておかなければ」という監督の切迫感が本作完成のきっかけのひとつなのではないか。それが杞憂に終わり、平穏な現在とひらけた未来が訪れることを願います。

こうやって振り返ると、わりと世界各地、バラエティーに富んだラインナップでしたね!こんなに色んな映画が映画館で観れる日本の映画産業、ありがたいぜ…引き続きよろしく頼むね。

ドキュメンタリーを観ることの間接的(?)な効果として、世界各地で紛争や災害が起きた時に、あの人たちは無事だろうか、とか幸せに暮らせているだろうか、とか考える想像力が補強される、というのがあります。あるんだよ。

だからもっとドキュメンタリー界隈が盛り上がって欲しいですね!という気持ちを込めて、本記事を締めくくりたいと思います!!

(……やっぱり地方とかに住んでると視聴のハードルが高いから、そのへんにどうアプローチするかが考えどころですよね。学校を巡回するとか?そういう補助制度みたいなの無いんか?配信サービスとかと上手く補い合えるといいんだけど……)

ということで、観れる人はせっかくなのでドキュメンタリー映画を観よう!映画がハードル高かったら(鑑賞料金も高いし)、Eテレでやってる海外ドキュメンタリーを観てみようね!!!面白いよ!

 

では!!!!!

映画「エルヴィス」と「幸せへのまわり道」を観てトム・ハンクスの底知れなさに腰を抜かそう

トム・ハンクスのことうっすら舐めててごめんなさい、っていう話をします…なんかこの話、書いた気がしてたけど書いてなかったので!

~本記事の概要~

自分と同じようにトム・ハンクスのことうっすら舐めてる人(失礼)はぜひ『エルヴィス』観て欲しい!!『エルヴィス』のトム・ハンクスを通過したあとの過去作、全く違って見えてすごいよ!

って言いたいだけの記事です。時期を逸しているのは否めないが、それを言ったらまあまあ何もかも今さらだよね。

……………。

いや『エルヴィス』のトム・ハンクス(エルヴィスのマネージャーを務めたパーカー大佐を演じています)、あまりにも得体が知れなくてすげー怖かったですよね!?映画館で2回観て、そのあと配信で1回観たと思う…んですが、毎回毎回、エルヴィスに語り掛けるときの真摯で親身な感じと実際にやってることの悪辣さのギャップで大混乱する。それは監督の狙い通りではあると思うんですが、それにしてもさ、「私は善い人です」って微笑みながらとんでもない所業を繰り返すのとか、エルヴィスを含めて周囲の誰も信頼してないあの感じ、まるでミダス王のように、触れるもの全てを黄金に変えるまで満足しないほどの強欲、それでもエルヴィスのことを大切なマイボーイって囁くときの優しい声音、なんかもう不気味なのにイノセントで凄まじいんですよ。

で、トム・ハンクスの出演作を全制覇しているわけではないが(なんせ多いからね…)こんなに得体のしれない底知れない感じの演技をする俳優だったっけ…と思って、そういう視点で過去の出演作を観ると、うん、そうだね!よく観たらめちゃくちゃ精密な演技をしているね!と(だいぶ遅ればせながら)気付いたのでした!ごめん!

なんていうか、演出や脚本が想定しているキャラクターの深みのさらに奥に一旦潜ってから、みんなが理解できる水準に合わせに来てる感じがするんだよね。それでもふとした瞬間に、底が抜けて垣間見える本当の奥行きには果てが無くて…みたいな。分かりにくい例えですまないね!

評判の良い出演作がたくさんあって、でも過去の出演作をどれだけ観てもトム・ハンクスという役者の全貌も真価も全然わからない、そういう気持ちになったことはありませんか。ありますよね。まあそんな感じで、映画はどれも面白いけどトム・ハンクスのこと何も分からんな…とか迷子みたいな気持ちでいたところに観た『幸せへのまわり道』、『エルヴィス』後に観たトム・ハンクス出演作の中で一番ヤバい(語彙力)なと思ったので以下はその話です!ネタバレは無いよ!

『幸せへのまわり道』、アメリカの伝説的教育番組の名物司会者フレッド・ロジャース
トム・ハンクス)と、彼を取材するジャーナリストの交流を描いた作品なんですけど、内容の話をする前にちょっといいですか!?

邦題が、ダセえ~~~~~!!!!!いいかげんにしろ!!!過去作とかぶっててもう最悪だよ!!!日和見のバカ野郎がよ!!!(特定の対象への端的な罵倒)ちなみに原題『A Beautiful Day in the Neighborhood』はフレッド・ロジャースの番組からとったタイトルなので翻訳が難しいのは理解できるが、だからといってこの邦題はマジでない。

閑話休題

映画としてはちょっと凝った構成になってて、全体がフレッド・ロジャースの番組のコーナーみたいな枠組みの中に入ってて、導入のアニメーションとかスタジオのセットとかも見ごたえがある。まあアメリカ人ならある程度みんな知ってるフォーマットなんだろうな…日本でいうと『おかあさんといっしょ』とかみたいな感じかな。

それでこのフレッド・ロジャースという人物が、なんというかもうパーフェクトなのですよね。物腰柔らかく受動的な態度でありながら、出会った人々の悩みや困難を見抜いて適切な助言を与え、癒し、必要とあらば行動するという…。そういう能動的なカウンセリングみたいなのを、ほぼ初対面の大人たちに対して行って違和感がないという稀有なキャラクター造形を、完璧にこなすトム・ハンクスな。

文章だと分かりにくいと思うんですけど(自分もそうだったので、公開当時は本作に興味が湧かなかった)、対人スキルにおいて際立った才能を持つ実在の人物を、説得力を持って演じるの、すごくないですか!?例えば楽器とかスポーツとかが上手いんだったら、編集技術やスタントダブルを駆使してなんとか頑張れそうな気もするが、本作の場合、完全にトム・ハンクスの演技力…っていうか身体のコントロール能力?が全てだからな。そういう意味では、フレッド・ロジャースとトム・ハンクスって方向性としては似たような才能の持ち主なのだろうか。いや分からんが。

でこれ『エルヴィス』と併せて観ると、トム・ハンクス(ではないが)に公私ともに依存せざるを得なかったエルヴィスの状況がものすごく理解できるんですよ。こんな、対人スキル(&自己プロデュース)の化け物みたいな人物にロックオンされて、無傷で逃げ切るなんてしょせん無理な話なのよ…。

『幸せへのまわり道』では、その才能が子供たちの健やかな成長のため、あるいは迷える大人たちを救うため、に発揮されていたのである程度は安心して観ていられるが、それにしても巨大すぎる才能に接した凡人が、それをいささか不気味に感じるのは仕方ない。その全容が掴めなくて警戒するジャーナリストの気持ちも分かるよ(わりとあっさり篭絡されるところも含めてな!)。

Wikipediaの英語ページによれば、トム・ハンクス自身は映画におけるフレッド・ロジャースをある種の”敵役”(the antagonist)と捉えていたようなので、やっぱり『エルヴィス』と『幸せへのまわり道』のトム・ハンクスは地続きなんだろうね。

という訳で世界、トム・ハンクスとフレッド・ロジャースを敵に回さなくて良かったねえ!という話なのかもしれない(そうだったのか)。

いやほんとに、人類がトム・ハンクスのどういうところに惹かれて、どういうところを畏れるのか、『幸せへのまわり道』にぜんぶ出てくるから…奇跡的なキャスティングだと思いますね、はい。逆に、トム・ハンクスについてよく分からないなあとか舐めたことを考えている場合は『エルヴィス』を観てひっくり返るのがちょうどいいと思う(オレだよ)。

『幸せへのまわり道』、地味な作品だからかトム・ハンクスのキャリアを振り返るときに言及されにくいイメージがあるけど、ちょっとびっくりするような遊び心のある仕掛けがあって、大人同士(特に男性同士)のケアの話にとどまらない複雑さもあって(主に俳優陣の良い仕事のおかげで)、トム・ハンクスの底知れぬ実力を垣間見れてすごく面白いのでおススメです!

ということで、トム・ハンクスへの理解を深めるために『エルヴィス』と『幸せへのまわり道』、どっちも観てくれよな!!!

では!!

映画「ギルバート・グレイプ」を観て思ってたよりジョニー・デップのことが好きだったかもしれない

いや今!?って感じでしょうけど……自分でもそう思うけど……こればっかりは仕方ないよね………(何が)。

 

傑作と名高い『ギルバート・グレイプ』ですが、2022年に劇場で4Kレストア版を観たのが初見でした!遅!なんかヒューマンドラマの名作って、観るのに勇気が要りませんか??自分だけ!?!?なのでテレビとかでやってるのを録画しても観ないまま、レンタルとかで見かけても後回しにして、気付けばこの映画の存在を認識してから20年以上が経過してたんですね。アホですね。

で、せっかく映画館で上映するならもうこの機会を逃すわけにはいかん!!って決意して、まあまあ決死の覚悟で観に行きました。かなり席が埋まってて、若い人も多かったので、さすが不朽の名作~~と思ったものです(なにその感想)。

こっから先、もうみんな観た前提で書くので!自分が今まで観てなかったくせにね!ごめんね!!!

ちなみに本記事、ただの自分語りですので…有益な情報とかは無いからよろしくね…

去年、はじめて観た時の思い出なんですけどね。

あの冒頭の、ジョニー・デップレオナルド・ディカプリオの兄弟二人でトレーラーの行列を待っているシーン、遠景から二人の会話が始まってぐっとクローズアップしてそれぞれの表情が映った瞬間に、いきなり涙腺が決壊してぼろぼろ泣いてしまったんですよね……まだ開始1分くらいだけど、大丈夫か自分、て自分でつっこむくらいには泣いた。なんなん。なんかこう、二人ともまだ幼いくらいに若くて、輝くばかりに美しくて巨大な才能があって、そこから現在までの、華やかだけれど困難な道のりを思って胸がいっぱいになってしまったんよね。心臓のあたりがぎゅーっとなって、比喩ではなくマジで涙が止まらんくなった。ハンカチで足りる?タオル貸そか?

で、今年(2023年)またリバイバル上映するっていうのでもうちょっと冷静に観れるかな…、て思って恐る恐る出かけたんですけど、ダメでした、やっぱりオープニングでぴーぴー泣きました。完全に「心のやらかい場所」に刺さってしまって、ちょっとでも触ると泣かされるやつになってしまいましたね。あーあ。

そんで、ジョニー・デップ、めちゃくちゃ繊細な演技をするなあ!と思って。今さら気付いたんですか!?はい……。

一家の実質的な大黒柱としての自負、家族への素朴な愛着、本質的な善良さと優しさ、田舎の人間関係に絡めとられることへの無自覚な苛立ち、その苛立ちへの罪悪感、抑圧された悲しみ、見知らぬ世界への漠然とした憧れ、そういうのが凝り固まって心身共に身動きが取れなくなってる感じ、そして不意に、しかし控えめに表現される心からの感情、それらが些細な仕草や僅かな表情の変化で実在感を持ってスクリーン上に映し出されていて、いや才能…!!って思いました。キャラクターの解釈と表現が完璧すぎないか??

もちろんラッセ・ハルストレム監督の手腕に依るところも大きいのでしょうが。特に兄弟姉妹、そしてベッキーの、溌溂とした生命力、衝突がありながらも互いにいたわりあう優しさとか、絶妙な細やかさで掬い取られていて素晴らしかったですね…。人間模様の切り取り方の匙加減がめちゃくちゃ上手い。だから登場人物の誰のことも嫌いになれないんだよね。まあ唯一、古そうな写真のみの登場だった長兄だけはちょっと腹立つけどな。作中では名前を出してはいけないあの人みたいな扱いだったが、お前ちゃんと仕送りとかしとるか??って途中から気になって仕方なかったね!

主役の家族を筆頭に、俳優陣の地に足の着いた演技とそれを丁寧に捉えた繊細な演出が、このちょっとファンタジックな成長譚を観るべき物語にしてるよね、と思います。もちろんその中心はジョニー・デップ演じる次兄なわけですが!

それからですね、本筋にはあまり関係ないところですが、深い悲しみで家から出られなくなった人を座礁した鯨に例えるの、『ザ・ホエール』で観たな??と思い(順番が逆だが、というかより正確に書くと『ザ・ホエール』を観た時にどっかで…てなって、今回『ギルバート・グレイプ』を再見して思い出した)、なにかアメリカ文学の伝統で元ネタがあるのだろうか、というのが気になりました!アメリカ人の(あんな海の無い町の)鯨の共通的なイメージってどこから来てるんだろう…ピノキオ?

ていうか90年代からゼロ年代、ブラピやレオ様はなんか普通にかっこいいよね~みたいな感じだったのにジョニデもいいじゃんって言ったらなんかちょっと趣味が変、みたいな扱いを受けたの納得いかないな!?今更だけどさ!!『耳に残るは君の歌声』とか『ショコラ』を公開当時に観てたから(今となってはなぜその渋いラインナップを観に行ったのか思い出せないが)、癖があるけど普通にかっこいいじゃん!って思ってたけど、みんなさてはティム・バートン映画の印象しかなかったな!?なんだよもう!!

閑話休題

ジョニー・デップ、まるで本当の自分を隠すみたいに派手に着飾ったり奇抜なパフォーマンスをしてそれが話題になりがちで、まあなんか繊細な人なんだろうなあとは思いますが。近作だと『L.A.コールドケース』も『MINAMATA-ミナマタ-』も良かったけど、でもがっつり巨匠の撮る作品に出てみて欲しいな~という気持ちもあります。諸事情あって難しいのかな…知らんけど。

ということで、『ギルバート・グレイプ』を観てジョニー・デップへの思い入れを再認識させられて大混乱した記録でした!古い映画を観るといろいろな発見があって楽しいね!

では!!!

 

2023/10/21追記!

なんかこの話、書いた気がする…と思って確認したら、去年の記事で全く同じこと書いとるやないか。もうだめだ。

映画「EO/イーオー」を観て、「ボーンズ アンド オール」と似てるな…?と思う

観てから間が空いてしまったけど、急に思い出したので書きます!

あんまりネタバレとか関係ない作品だとは思うけど、『EO/イーオー』と『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』と『ボーンズ アンド オール』の設定や展開についての話をするから、未見の人は気を付けてね!!!

日本では『EO/イーオー』と『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』がえらい近い日程で公開されて、続けて観た人も多いと思うが(そうか?)、まさかのメインテーマ被りが発生していてびっくりしましたね。アニマルライツ(動物倫理)が社会学・自然科学の垣根を越えてここ数年ホットな話題だというのは何となく知っていたけど。日本でもいくつか翻訳書が出たり、あと各地の動物園の取り組みがマスメディアで紹介されたりとかで、だいぶ人口に膾炙したなあ、と思っていたところだけど。

まあピーター・クイルの中の人は動物の福祉とかそういうのあんまり興味なさそうですよね、どういう解釈であの話のあの役を演じていたのか興味ありますね。っていうか恐竜のほうの扱いもな~(ずっと言うからな)。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』は、アライグマ氏をメインに据えて、人間に搾取された動物たちが主体性を取り戻す話をやっててすごく良かったです。それぞれのキャラクターが自分の人生を手に入れる話でもあったし。(ただし作劇の都合とはいえ、途中であの惑星がひとつ消滅するくだりはちょっとキツかったね…MCUで何もエクスキューズなくあれをやると思わなかったからさ)

『EO/イーオー』のほうは、もっとずっと現実的なのでロバの主人公が望む理想郷には辿り着けないんだけど…。

で、本題はそっちではなくて、『ボーンズ アンド オール』なんですけども。いやあの、『EO/イーオー』と『ボーンズ アンド オール』、似てませんか???似てるよね???

上手く説明できないので箇条書きになりますが…

 ・疎外された無垢なる者たちのロードムービー≒地獄めぐり

 ・クィアネスを感じさせる異端の愛

 ・搾取する/される側を強制的に転換させる物語構造

っていうあたりが…。以下、蛇足の補足。

 

・疎外された無垢なる者たちのロードムービー≒地獄めぐり

両作品とも、一般的な社会から疎外され(あるいは主体性を奪われ)ているがゆえに無垢なままの少年少女、あるいはロバが、安息の地を求めて旅するロードムービーですよね。あと、旅そのものが救済になるのかと思いきやそうでもなく、次第に地獄めぐりに近接していくところもよく似ている。彼らの居場所は現実世界のどこにもない、という事実を確認していく旅。行き着く果てに待っているのは、この世の外でだけ成就する救済。

 

クィアネスを感じさせる異端の愛

『ボーンズ アンド オール』のほうは分かりやすいのでもうええか。主人公の少年少女、どちらも中性的な雰囲気だし、あと性的指向も流動的な感じで描写されてましたね。あの二人の結びつき自体が、性別を越えたものと捉えることもできる。あとけっこう繰り返し、愛や愛になり切れなかった想いや関係性を色々なやり方で描いていたと思う。どこか別の世界では愛になり得たかもしれない異形の感情たちが、画面のあちこちで寄る辺なく彷徨っていて、観客はそれをグロテスクだと感じてしまう自分に気付かされる。

『EO/イーオー』では、主人公のロバがサーカスのパートナーの女性に抱く愛着が、たぶんそれ。ロバの主人公が種族の枠を超えて育む愛は、誰にも理解されず(たぶん相手の女性にさえも)、愛する者の傍にいたいというささやかな願いは叶わない。主人公が望む愛は、世界のどこにも存在しない…。

そう、どちらの作品でも、主人公たちが求めてやまない愛は現世では成就しないのです。優しくありたい観客を突き放す圧倒的な孤独が、苦くて深い余韻を残す。

 

・搾取する/される側を強制的に転換させる物語構造

『ボーンズ アンド オール』の食人は、直接的には(性的)マイノリティの暗喩だと思うけど、表現を素直に受け取ると、映画の観客は主人公たちからしたら”食べ物”なんですよね。だけど物語だから、主人公に感情移入せずにはおれない。だから観客は映画を観ているあいだ、主人公たちの”食う側”と、自分が所属している”食われる側”を揺らぎながら行き来することになる。これが普通のホラー映画だと”食われる側”に安住できるんだけど、この映画はそれを許さない。

それは『EO/イーオー』も同様で、徹底的に主人公のロバの目線で物語が進むことで、観客は”人間に搾取される”感覚を追体験することになる。めちゃくちゃ居心地が悪いんですよ、これが。誰にも話を聞いてもらえず、自分の居場所を選べず、欲しいものは何も手に入らず、最後は…。それをロバに強いているのはごく普通の人間たちであり、我々の一部であり、普遍的な人間の営みそのものがその搾取構造を支えている。

観客である我々は人間なので(だよね?)、映画で断片的に示される人間側の都合はすぐに理解できるが、ロバの行動原理はなかなか分かりにくい。だから油断すると人間の論理で映画を観てしまい、主人公のロバを愛玩するような目線になってしまうんだけど、そんな安易な感傷は映画の作り手によってあっさり拒絶される。その不安定な立ち位置のまま、結論を宙吊りにされたまま、ラストまで連れて行かれてしまうのが、『ボーンズ アンド オール』と似てたなあって思いました。

どちらも、すごい挑発的な映画だったよね、観客が意識的/無意識的に安住する立場を直接揺さぶってやろうという気概に満ちていた。主人公たちに感情移入できた人もできなかった人も、どちらも何かを考えずにはおれない、知らない感情を喚起されずにはおれない、そういう作品でしたね。

なんかこういう、互いにあまり関係なさそうな作品同士でテーマや手法が似通ったりするのを発見するのは、リアルタイムに新作映画を追いかける楽しみのひとつですね。

『EO/イーオー』も『ボーンズ アンド オール』も万人には薦めづらい作品だけど、刺さる人には深々と刺さるタイプの映画だと思うので、ちょっとでも気になる人はどうにかして観てよね!

では!!!!

映画「TAR/ター」を観て主人公のしぶとさに心打たれた

6月中にこの文章リリースしようと思ってたのに、もう7月が終わる~~~!!!

ちょっと前ですけど『TAR/ター』、観ましたよ!!すごかったですね!!!

しかし行きつけの映画館でやってなくて、アウェーのとこまで出かける羽目になったよね…なんか公開規模、小さくないです??”芸術映画”だから???

それはともかく、ほぼ全編にわたって画面に出ずっぱりのケイト・ブランシェット様の眩いばかりの輝きを存分に浴びて大変に満足しました、はい。そもそもが虚構である映画の中で、嘘をついている演技をするのってすごく難しいと思うんですけど、その匙加減が素晴らしかったですね!!演技をしている演技、をしている演技…の無数の入れ子構造を自在に行き来する稀代の熱演でした!

で、まあ有識者による感想や解説はほぼ出尽くしていると思うのですが、自分の感想を忘れないうちに振り返っておこう…と思いまして。

賛否あるみたいですが(そりゃそう)、自分は好きですね!!なぜなら美しくて賢くてふてぶてしい女がしぶとく成り上がる話が大好物だから…(そこ?)。そして伏線を散りばめまくったサスペンス的演出も大好きなんよね。ありがとうエンタメ指向。そういう意味で、個人的には『シンプル・フェイバー』とか『パーフェクト・ケア』とか『氷の微笑』(←最近4Kレストア版を観て、面白さを再認識した)と同じ棚に入ったんだけど、こんな凝ってて各賞ノミネート&受賞しまくりの高尚(高尚て)な作品をそこに並べてよいのだろうか、とか思わなくもない。まあいいや。

ということで、以下、ただの感想です!!たぶんネタバレしてしまうと思う……なぜなら自分の解釈に自信がないから……(ていうか、どこまでがネタバレなのかよく分からない!!むずかしいよ~~)

なお、いくつか読んだ解説のなかで、いちばん納得感があったのがこちら→『TAR/ター』芸術に神はいない|うまみゃんタイムズ

正直、こちら読んでいただければ以下の文章には特に価値は無いです。はい。

音楽とか演出とか

稀代の指揮者、リディア・ターは女性の身ながらクラシック音楽界の頂点(それはつまり現代の音楽業界の頂点でもある)を極めようとしていた…っていう粗筋(設定?)から、文芸映画っぽい印象を持たれるかもしれないが、実際のところは「リディア・ター」の正体をめぐるサスペンス・スリラーだよね!?後半とかもう演出が完全にサスペンスなのよ。後から思えばオープニングの謎めいたやり取りからしてまあそうだった。ところであの会話、せっかくチャット画面で性別が曖昧にしてあるのに字幕がちょっと微妙だったですね。

閑話休題

主人公のリディア自身、そして周囲の人々もみんないわゆる”信頼できない語り手”なので、聞こえてくる音や画面に映っているものさえ、そこに実在するのかを考えざるを得ないという、めちゃくちゃ観客に負荷をかけてくる演出が素晴らしかったですね!監督は疲れ果てたらしいが(どこかのインタビューで言ってた)。圧倒的に美しい音楽やさりげない生活音さえ、何かを示唆しているはずで、全ての要素に意図があることだけが確かな、精緻に作り込まれた物語を彩る無数の音……。

とりあえずですね、冒頭の演出からもうずーーっと音響演出が凝っててすごい(語彙力の無さ)。この音響演出を体感するために映画館で観る価値があるし、音の演出自体がストーリーの伏線になっているので、おうちで観るときはヘッドフォンとかを使った方がいいかもしれない。音量のレンジが広くて、立体感のある音響環境を推奨します!

ところでオープニングとエンディングの音楽がきっちり対になっていることに、二回目の鑑賞でようやく気付いた。遅。後から考えると親切な伏線だったな…てなるのも良いサスペンスの証しだよね!※個人の見解です

 

リディアのキャラクターとか

で、リディアなんですけど。

現実ではまだまだ希少な女性のトップ指揮者ということで、”ああいう感じの人物が、登り詰めて誰にも手出しできないほどの権力を手中にした”という設定自体が現実的ではない、という指摘は関係内外からあったらしいですね(ソースは見失った)。その指摘自体には一理ある気がするものの、二回目を観た後ではその不自然さ自体もストーリー上の仕掛けだったりしないかな、と思ったり。

トッド・フィールド監督や俳優たちの発言などを読むにつけ、たぶん本作は権力をめぐる寓話としての側面があって、男性を主人公にしてしまうと、歴史的経緯や社会的状況、俳優本人のキャラクターなどがもっと前面に出てきてしまって、本作で描きたかったであろう「構造」が分かりにくくなるのでは、とか考えました。

ただまあ、権力を持つ主人公を女性にしただけ、でこんなにセンシティブな反応が噴出すること自体を製作陣が想定していたか?っていうと、半々くらいな気がする。日本語に訳されたインタビューとかプロダクションノートしか読めてないので、断定的なことは言えないけどね。

セクシュアリティの設定についても、指揮者とコンマスが男性/女性の場合や、男性/男性、女性/男性、のパターンだと、この映画で扱う範囲以上の現実社会の権力構造を招き入れてしまうので、焦点がぼやけてしまう可能性が高い。それを作り手の”逃げ”だと言われてしまえばまあそうなんだけど…。これ書いてて思ったけど、コンマスが男性で他の登場人物の性別がそのままだったら、それはそれで別の緊張感があって面白かったかもしれんな(不謹慎では)。

で、実際の女性指揮者が本作に対して感じる違和感については、個人的に『モンタナの目撃者』のときに感じたことと同じなのではと思うんですよ。そのときは誰も言ってなさそうだったからメモ代わりに記事を書いた(→映画「モンタナの目撃者」を観てハンナの来し方に思いを馳せる - 窓を開ける )。

自分はとある分野のやとわれ労働者なので、本作のリディアよりはプロフェッショナルな組織人のハンナのほうが立場が近くて、そっちの違和感に気付きやすいっていうことだと思います。

 

オチとか

ラストの展開について、キャンセルカルチャーへの異議申し立てと受け止められるのは、製作側としては不本意なのではなかろうか。リディアがキャンセルされること自体への賛否は明確にしないように脚本も演出も(かなり注意深く)コントロールされていたように思う。

しかし指揮者というのは、その立場を成り立たせるためには奏者の存在が不可欠で、それ自体が権力構造のメタファーみたいだな…ってこれまた二回目の鑑賞で気付いたのでした。権力は、それが求められるところに存在する、っていう話なのかなと(ラスト含め)。

だからリディアの失墜の直接原因になったスキャンダルについては、観客に事実が分からないようにしたのも、権力を生み出し支える構造そのものを焦点にしたかったからなのでしょう。しかし昨今のエンタメ業界を取り巻く情勢を鑑みると、そのエピソードの扱い方は野心的というより挑発的だよね。

そう考えるとですね、ラストがオリエンタリズムっていう批判はちょっと違うのではないか。ただ、リディアが、自分がそれまで顧みなかった別の評価軸を都合よく利用しているってのはそれはそうで、そのこと自体の価値判断を作中で保留しているのが、批判の対象になるのは分かる。で、そういう行動はリディアの権力というものへの感受性の鋭さを表していて、これからも指揮者として前線に立ち続けるのだろう、ということを観客に予感させるのですよね。だからあのラストは個人的にはけっこう好きです。

これはあんまり本編と関係ない話なんですが、東アジアのポップカルチャーのファンダムがあんな感じ(ラストのあれ)かどうかは異論がありそうね。なんであんな厳粛な雰囲気になってるん…???

 

そのほか

パンフレットに載っていたインタビューでケイト・ブランシェットが言及していた、娘にピアノを教えるシーン、本編に無かった(よね?)のですが観てみたいですね。円盤特典とかに収録されるのだろうか。

あとパンフといえば、存在感のあるレコードジャケットサイズだったので、おぉ…ってなりました。ちなみに『エルヴィス』に続き、です。内容も、充実した監督・俳優インタビューに加え、クラシック音楽業界まわりのしっかりした解説がありがたかったです。

公式のコンセプトアルバム(?)とか、レコードとか、音楽周りの供給は非常に充実しており、プロデューサーの意気込みを感じますね。確かに音響含め、作り込みがすごかったからな…。こういうときに、音楽系のサブスクがありがたいよね。映画をたくさん観るようになってから、サントラとか関連プレイリストがすぐに聞けるありがたさをすごーーく感じています。ありがとう世界。

さて、ここで文章をダラダラと書いている間に、ケイト・ブランシェット俳優業を引退するかもとの発表があり、寂しい気持ちと共に、こんだけの仕事をすりゃあそれはね、とか思ったりしている。そのあと、スパークスのライブで謎ダンスを披露したというニュースを目にして、お元気そうで何よりですね…と思いました。

まあまだ観てない出演作は山ほどあるので、引退を惜しむような立場ではないんですけど。

けど。

ちなみにあなたのケイト・ブランシェットはどこから?自分は映画館で観た『ロード・オブ・ザ・リング』からだと思っていたが、その前に『耳に残るは君の歌声』を観ているな…??何も思い出せないが…(配信してないし…)。

思えば、映画館で映画を観るようになってからこんにちまでずーっと第一線で活躍していて、この人が出ているなら面白い作品なのでは、と思わせてくれて、その期待を裏切らない稀有な俳優ですね。自分と同世代の映画ファンならみんな、ケイト・ブランシェットには頭が上がらないのではないか。なあそうだろう、みんな。

ということで『TAR/ター』、さすがに面白かったし最前線!って感じの映画だったので観れたら観てね!!音響環境を整えるのが大事よ!!(自宅の設備が微妙な場合はヘッドフォンを使おう!)

では!!!!

映画「怪物」を観て監督と感性が合わねえ…ってなる

あのー、この文章、マジでネタバレしかしない予定なので気を付けてね!!っていうのと、是枝裕和監督と感性が合わない話をするからそういうの読みたくない場合も自衛してよね!!!

この文章はサムネとかでうっかりネタバレを表示しないための文字数稼ぎだよ。

では本題いきますよ!!

監督に言いたいことはですね、

バッドエンドを語る勇気がないならせめて現実のハッピーエンドに向き合えよ!!!

です!!!

※ここから先、ラストシーンの詳細に触れるからね!

自分、『空気人形』を劇場で観たときから思ってるんですけど、作品の良し悪しとは別のところでなんか合わねえ~~~ってなるんですよね、是枝監督。

以下、『怪物』のラストシーンの話なんですけど、あれ、どっちだと思います??自分は”死んでる”と思いました。

根拠(っていうほどのものでもないが…)は

・立ち入り禁止になってた線路に入れるようになっていた(あの看板とか柵、雨風で飛んでいくようなつくりじゃなかったよね?)

・電車の中の二人の最後のシーン、運転席にいたけど、母親と教師が来た時にそのへんは完全に土砂に埋もれていた(天窓?を開ける直前、真っ暗な車内が映っていたけど、運転席が無事ならもう少し光が入ると思うんだよ)

・ラストシーンの直前、校長先生、DVお父さん、母親が映ったけど、幼い家族を亡くす人々…の暗示なのでは

ていうところです。1回しか観てないのでちょっとうろ覚え。

で、じゃあそういうバッドエンドなら(子供が亡くなるのはバッドエンドでしょ!?)ちゃんとそれを描き切れよ!!ってなったわけです、自分は。大人たちが、自らの怪物性に向き合わないからこんな悲劇が生まれたんじゃないか。誰かその話しろよ!!校長も、なんか良いこと言って退場してんじゃねえ!!ちなみに生存エンドだとしても、現実の問題はなにひとつ解決される兆しがないじゃない、二人とも転校するんか??っていう話よ。

現実では救われるルートが見えない、だからせめて…っていうのは作り手の怠慢でしょうが!!!作り手は社会的地位のある大人で、モチーフに子供を選んだからには、ちゃんとしろ!!雰囲気ハッピーで終わらすな!!ってならん???

『空気人形』も『誰も知らない』も『万引き家族』も『ベイビー・ブローカー』も、現実に存在する苦しみや悲しみを扱っておきながら、なんかいい感じの雰囲気で終わらそうとすな!!

是枝監督は子役を撮るのが抜群に上手いので、余計に気になるんですよね、たぶん…あのラストは坂本脚本というよりは是枝監督の作家性でしょう。これは推測だけど、脚本家と監督の間でそこそこ議論した結果があれなんだとは思うが……えー…。

あと是枝監督と趣味が合わないのが、なんか水商売をやってる若い女性に聖性とか無垢さを代表させがちなところ…でも『怪物』は坂本脚本だからそれはほぼ無かったので良かったです、はい。

まあ女性のキャラクターがちょっと変だったのはそれはそうなんだけど、脚本のせいか監督の癖かは分からなかったですね。安藤サクラ演じた母親も、安藤サクラの説得力でそのまま納得しそうになるが、ああいう形で配偶者を亡くしていてあの言動はなんか変では?とか思わなくもない。

あ、そうだ、脚本で明確にイラついたのが、主人公の少年の隣の席の大人びた女の子がBL漫画を(わりと堂々と)読んでて、そ、それで少年たちの苦しみを仄めかすの!?バカか!?と思っちゃった!!おかしいだろその感性…。いやなんかエピソードをかなり削ったらしいから(どっかのインタビュー記事で読んだ)、あの女の子まわりの話は確かにバランスが変だったけど、それにしてもよ。いや自分も令和のBLに詳しいわけではないので何とも言えませんけど、”BL読んでる女の子”を”分かってる人”ポジションに置くの、それこそBLファンタジーじゃないの……………????

以下はとりとめのない雑感です。

主役の少年、『誰も知らない』のときの柳楽優弥に雰囲気(というか顔立ち?)がそっくりだったのでちょっと驚いたよね。あと、安藤サクラは相変わらず素晴らしかったけど、ああいう役が演じられる俳優、他にもおるじゃろ、とか思わなくもない。安藤サクラが安牌なのは分かるけどさ。

舞台になった上諏訪、高い山に囲まれて、諏訪湖が街の中心にある独特の風景が美しいので、映画を撮りたくなる気持ちはすげえ分かる…と思いながら観ました。湖が真っ暗になる夜と、光溢れる昼間で表情が全然ちがうんだよね。しかし諏訪湖といえば冬季の全面凍結が名物なのに、映画の中でそれに触れなかったのは何故なんでしょうね。あまりにも閉塞感が強調されてしまうから?でもあの暗くて長い冬があるから、春と夏があんなにも美しいのだと思うが…。

それからこれは映画の本筋とは全く関係のない話ですが、小学校の設備改修に予算が出なくて30年くらい前のままになってる、という話をどこかで読んだのを思い出してしまった。いやあれはいかん、学校に行きたくない理由のひとつになってしまうボロさよ。教育(しかも初等教育)にお金を出さない共同体は滅びるぞ…(さんざん言われてることだけどさ)。

はい、ということで『怪物』の(だいぶ偏った)感想でした!プロモーションの方針とかにも批判意見があるのは知ってますが、それ以前に作品として合わなかった、ていうね!!うーん、残念!!!

しかしながら映画としてのクオリティは抜群なので、観て損はないと思います!!映画には”旬”があるので、乗っかれる人は乗っておこう!!!

では!!!!

 

2023/06/09追記

列車とトンネル、宇宙のモチーフについて、『銀河鉄道の夜』オマージュではないかという指摘を拝見しまして、なるほど、というのと同時にじゃあやっぱり”死んでる”じゃん…と思いました!

最近観た映画がなんだか多国籍だったので覚書など

本稿では、

『ガール・ピクチャー』
ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』
『未来は裏切りの彼方に』
『聖地には蜘蛛が巣を張る』

の話をします!!!観た順だよ!!

映画を集中的に観始めたばかりの頃は、ハリウッド映画中心に分かりやすいエンタメを選んで観ていたのですが、だんだんそればかりでは物足りなくなり…っていうのと、さすがに映画鑑賞基礎力(?)がついてきて、色んなテイストの作品を楽しめるようになってきたので、最近はポスターとか映画館で観た予告が気になったら前評判とかあまり気にせず観るようにしています。というか、公開規模の小さい作品は、ぼんやりツイッターを眺めていても感想が流れて来ないからね…直観を信じろ!みたいな。

で、ちょっと立て続けに非英語圏の映画を観たのでメモを兼ねて感想を残しておこうと思います!

ネタバレはしないつもり!!!

『ガール・ピクチャー』

フィンランド発!のティーンエイジャー女子3人を中心にした青春映画!

いやさすがにフィンランド、とにかく高校生たちがめちゃくちゃしっかりしている…。まあスポーツの授業が主義に合わなくてサボタージュしたのはさすがに怒られてましたが、それでもその主義主張自体が黙殺されるわけじゃないからね。服装もそれぞれが自分のキャラクターをちゃんと主張していて、恋愛も性愛も、自分の言葉で考えていて、すごいなあ…って眩しくなりましたね。でも、家族関係が希薄なことで孤独を抱えていたり、みんなと同じような恋愛ができなくて悩んだり、才能あるスポーツ選手が進路のことで葛藤したり、っていうのは本邦の少年少女たちと同じだね、とも思いました。

斜に構えたような態度だった女子が、かわいい恋人ができたとたんに心身が安定して、学校生活になんとなく積極的になるところとか、なんか愛おしくて抱き締めてあげたい気持ちになったわね。ラストの3人の笑顔で胸がいっぱいになりました。

社会の中で軽んじられがちな(それは日本もそうだよね)女の子たちが、誰にもジャッジされることなく、自分自身の声を持つこと。不安と焦燥の中にあっても、友達と一緒にいられて、大胆で勇気があること。自分を大切にすること。そういう女の子たちをエンパワメントする作品として、広く観られて欲しいなと思います。

↓とっても良かった監督のインタビュー

不完全だから人生は面白い。北欧発、Z世代の青春ムービー『ガール・ピクチャー』の監督アッリ・ハーパサロにインタビュー | 【GINZA】東京発信の最新ファッション&カルチャー情報 | INTERVIEW

こちらを読むと、本作の女の子たちは監督たちが「こうあって欲しい」という理想を込めたキャラクターや脚本のようだけど、でもこの映画の女の子たちの姿が”射程圏にある”っていうだけでも、さすがだなあ、っていう気がしますね。よう知らんけど。

 

ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』

ジョージア発!(邦題に国名を入れるセンスは謎だけど、分かりやすいのはそれはそう)

ほんの少し言葉を交わした若い男女が恋に落ち、”白い橋のカフェ”で会う約束をするが…というすれ違い系ロマンスなんですが、二人とも、焦らず待ち続けるだけなのでそこにドラマティックな展開が無いのがなんかすごく新鮮だった。観てる側はなんとも歯がゆいのですが。

本作の舞台はジョージア西部の古都クタイシで、煌めく陽光の下、滔々と流れるリオニ川の水がぶつかり合う音を背景に、人々の何気ない日常の出来事をスケッチブックに写し取っていくような、この街そのものが主人公とも言えそうな映画でしたね。ジョージア第二の都市でありながら都会化していない風情が人気の街だそうですが(もちろん遺跡とかもある)、監督自身がクタイシのそういう暮らしに魅力を感じて、この映画ができたんだろうなと思いました。

ところで、オープニングクレジットから登場する(当たり前)グルジア文字がかわいいのなんのって(グルジア語キー配列 - Wikipedia)。一部の言語マニアの間では有名な文字だそうですが、こんなの心を奪われてしまうのも分かるよ、ちょっとこう、アラビア文字みたいな装飾的な文字だよね。活用や変化が多くて習得は大変らしいが。

それはともかく、恋人たちを襲った忌まわしい呪いも、それが解けるときの奇跡も、東欧世界の歴史的な奥行と物語の伝統が融合した夢のような瞬間だったんですけど、それよりなにより、途中ででてくるおとぎ話みたいなケーキ屋さんがめちゃくちゃマジカルだったんだけど、あれは一体なんなのだ。ジョージアは魔法の国なの??あのケーキ屋さんは実在するんですか???

↓と思ったら監督もファンタジックだと認めていた。ですよねえ~~!

映画『ジョージア、白い橋のカフェで逢いましょう』監督にインタビュー。東欧の古都を歩いて着想した現代のおとぎ話 | 【GINZA】東京発信の最新ファッション&カルチャー情報 | INTERVIEW

ノンフィクションの紀行番組みたいな作風なのに、ところどころでそういう煌めくようなフィクションを入れ込んでくるから、惑わされる…!それが本作の魅力のひとつでもありますね。ジョージア、行ってみたいねえ~~!

 

『未来は裏切りの彼方に』

スロバキア発!20世紀にスロバキアが辿った苦難の歴史、大国に翻弄される小国の苛烈な運命を凝縮したような銃後の女たちのサスペンス!

ヨーロッパの近現代史に不案内すぎて、まず舞台となったスロバキア共和国 (1939年-1945年) 第二次世界大戦中にどういう立場だったのかを呑み込むのが大変だったね…徴兵された兵士たちが戦う相手、村にある大砲工場の客先、それぞれに対して村人や経営者が抱く複雑な感情、レジスタンスの暗闘、複雑極まる情勢の中で生き延びるための、命がけの騙し合い。東アジア史で言うと、情勢の複雑さは同時期の満洲とかに近いかもしれん。どっちがどうという訳ではなく、さらっと歴史的経緯を追っても状況がぜんぜん理解できない、という意味で。

大砲工場のおかげで多少は潤っている田舎町、男たちが戦場に出て、女たちを雇用する工場長は専制君主のように振る舞う。そこへ一人の脱走兵が帰還して巻き起こる愛憎劇、激動する社会情勢に翻弄される個人の運命。そして迫る決断のとき。

戦場に出ない/出られない女たちにとって、いつでも起こり得る理不尽な悲劇として普遍性がありつつも、そこにスロバキアという小国の歴史を重ねずにはおれない切実さが真に迫って、ちょっと他にはない雰囲気の作品でした。ラストのカタルシスもすごいです。

スロバキアの若手監督がこの題材をあえて英語で撮ったのは、脚本家が北アイルランド出身だから元になった舞台の脚本が英語だった、というのもあるだろうけど(推測です)、物語の普遍性を強調すると同時にマーケットの大きさを考慮してのことかな、と思いました。

 

『聖地には蜘蛛が巣を張る』

デンマーク発!ただしイランの話なので全編ペルシア語です!

ある社会的状況(社会通念や規範意識、政治状況)が、ある種の暴力を容認する(推奨する)かのようなメッセージを発してしまい、メッセージを受け取った人間がその暴力を実行してしまう、っていう話なんですけど、なんか今の日本の状況をクリアに突き付けられてキツかったですね。生活保護受給者へのバッシングとか、貧困女性サポート事業の妨害とか、難民への非人道的な扱いとか、それらを実名・顔出しで容認するのは、本作で描かれている暴力と全く同じ振る舞いなわけで。男女で構造的な問題の認識にすごい差があるところとかも、大袈裟には描写されないけど演出が丁寧で上手いので余計に厳しさがある。

メインの連続殺人犯のキャラクター、よき家庭人であり敬虔なムスリムであるという自認自体が凶行の理由になる、ていうのがどうしようもなくてすごかったんですけど、警察署長?とかも、自他ともに認める良識人(女の仕事にさえ協力してやっているという)で、でも女性の立場から見える姿は醜悪で暴力的、ていうのとか、嫌さの解像度が高くてちょっとトラウマになりそうなレベルでした。

これは自分の観測範囲だけの話なんですけども、それなりの数の映画を観ている人(一般人)の感想が、男女で割とはっきり分かれていたのが印象的で、それがむしろ監督の狙いなのかな、と思ったり。男性は、犯罪映画なのに演出が物足りなくて退屈だった、ていう微妙な評価なのに対して女性は、めちゃくちゃ嫌な犯罪の嫌さが丁寧に描かれているので高評価、っていう感じです。それぞれ数人ずつの観測結果なんですけど、もうこの差異自体が、作中の男性/女性ジャーナリストの事件に対する姿勢の違いそのものなんですよね。この、現実の分断を可視化するところまで監督の製作意図だとしたら(たぶんそうなんだけど)、信頼のおける辛辣さだな、とは思います。

はい、ということで多国籍で良かったな~という感想でした!配給会社のご担当者様に特大の感謝を捧げます。世界の複雑さに対する理解がまた少し深まりました。

こういう映画たち、映画館で見逃すと次にいつどこで観れるか分からないんですよね。なので一期一会の機会に感謝しつつまた出会いを求めていこうと思います!

みなさまにも良き出会いがありますように!

では!!!