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映画「バビロン」を見てやっぱチャゼルとは気が合わないなってなる

~はじめに~

ヘイズ・コード以前のハリウッド映画界を扱う『バビロン』に相応しいドタバタだな、って微笑ましいニュースからどうぞ↓(爆笑)(担当の方はご苦労さまです)

2023年2月10日(金)から上映しているドルビーシネマ2D字幕版の本編映像は、必要な修正ができておらず、「R18+」区分相当の内容となっていたことが判明致しました

そういやツイッターで「これがR15+?」ってびっくりしてた人がいたけど、ドルビーシネマで観たんかもしれんね。事故じゃん。

はい!!

話題作だし…と思って観ましたよ、『バビロン』!!!役者も豪華ならセットや衣装も豪華絢爛、とにかく画面の圧が強くて情報量が過大で、途中で脳が処理落ちしたらしく登場人物たちの人間関係が分からなくなったまま、怒涛の(賛否の分かれそうな)ラストになだれ込んだのでした…!!!どわーー!!!

これは比喩ではなくマジですが、午前中に『バビロン』を観たあと疲労のあまり半日寝込んでいました。いやまあ単純に”長い”ってのもあるでしょうけど…疲れた…。

ということで、楽しかったところの話と、チャゼルと気が合わねえって話をしますよ!映画史にも映画文化にも疎いので、解説とかではないです、ただの感想です!!!

まず楽しかったところ!ネタバレは無いよ!!!

とにかくサイレント映画の撮影現場のシーケンスは素晴らしかったですね!!屋外に設けられたMGM(Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc.)の入り口みたいなところからカメラが入っていって、だだっ広い荒野にいろんな映画のセットが林立して、その間を役者だかスタッフだかみたいな胡乱な人たちが怒鳴り合いながら走り回っていて…ていうあのシーン。サイレント映画は音を録らないからセットが密集してても大丈夫なのか、ていうのに気付いてまず驚いたし、めちゃくちゃな活気がすごいし、野外ゆえの抜けるような解放感も相まって、カタルシスがすごかった。あのシーンをつくっただけでも『バビロン』は価値があると思います。はい。

登場人物が口々に言ってた「セットで会おう」ていう台詞の煌めき、そりゃあんなところで働けるなら、それはもう魔法の言葉になるよね、て納得せざるを得ない。

あと、雨が少ないから西海岸で映画産業が勃興したっていうどっかで聞いた話を思い出したわね。すごい説得力だったよ。

そういう無秩序で雑多な撮影現場とも通じるんですけど、無国籍なコスモポリス的映画業界が素敵でしたね!!無法地帯なのは間違いないので油断すると死ぬな…って感じで、塵埃と泥濘の中で夢を見る間もなく散った人々もたくさんいたんだろうけど、でも出自を問わず何も持たない誰もが成り上がるチャンスのある、夢の場所としての魅力が眩く輝いていた。

チャゼルが、映画が内包する夢や欲望、活気そのものを愛していてそれを映画の中で再現してみたかったのは分かるよ、それはすごい伝わったよ。

けど、けどさあ、

その愛情表現はちょっと理解できないな!!っていうのがけっこうあってね…

以下、チャゼルと気が合わなかったところの話をするよ!!ネタバレもするから気を付けてね!!!!

チャゼル脚本(『ラ・ラ・ランド』と『セッション』ね)の人間関係、いまいち腑に落ちないことが多かったんだけど(なんでラストそうなる!?みたいな…)、今作もそうなってしまいましたね。うーん。

全体的に価値観が合わないんだよな…(自己実現のために友人や家族や恋人を手放すっていうの、古くない???しかも全員が)。

で、そのチャゼルのサビ的なストーリー、モデルとなった人物からの改変部分がチャゼルのアイディアだとしたら、それはちょっと自己模倣なのでは、と思わなくもない。あと敬意というか映画文化への良心的な執着みたいなものがあるのだとしたら、俳優二人の末路とレディ・フェイの性的指向の改変は、もっとモデルが曖昧な人物でやったほうが良かったと思う。これは自分の倫理的な規範意識の問題かもしれないけど、でもさあ…。

そういうの抜きにしても、レズビアンだかバイセクシャルだかを東洋人のミステリアスな女にやらせるっていうのがそもそもなんかテンプレ的だしさ!!レディ・フェイのモデルになった(んだよね?)アンナ・メイ・ウォンが性的指向に関する根拠のない噂に悩まされたらしいという話を踏まえると、チャゼルなんも考えてないんか??ってならん??実在の人物への誤解を強化する可能性にはもっと慎重になったほうがいいのでは??

あのパワフルな女性監督のモデルであるドロシー・アーズナーがレズビアンだったらしいので、例えばそっちに女性同士の恋愛エピソードを持ってきても良かったじゃん?なんでわざわざ東洋女にやらせて(女性とのキスシーンはマレーネ・ディートリヒのオマージュらしいし…)、史実のほうを無しにしたん?その脚色にオリジナリティが感じられないのよ。

サイレント映画の大スター二人が自死(のような最期)を選ぶラストも、いやなんで二人とも??ってなるじゃん。っていうか俳優だけじゃなく作り手であるマニーも含めて主人公全員が映画の現場から離れるせいで、「映画は終わった」っていう話になっちゃってるけど、チャゼルはそれで良かったんか?やりたかったことと合ってる??

「映画は永遠に続くもの」って言いたいなら、サイレントの時代が終わっても映画の仕事を続けたドロシー・アーズナーのエピソードにフォーカスするという手もあるじゃん?あるいは、トーキー時代の新しいスターを取り上げてもよい。なんでそうせずに、当人が望まない形で映画業界を離れた人たち(マニーが見出した黒人ミュージシャンもだね)の後日談だけを取り上げたの??

 

あとこれはたぶん人間関係が腑に落ちない話ともつながるんですけど、俳優の色気や美しさがぜんっぜん撮れてないと思うんですよ!いや俳優のオーラが映らないほうがいい映画というのはもちろんあって、チャゼルだと『ファースト・マン』は脚本やテーマと合ってて、それで上手くいってた。しかし『バビロン』でスターのオーラが映ってなかったら駄目でしょう!

例えばブラピだったら、映画の最初では(たとえ下着姿でプールに落ちても)輝くばかりに美しくカリスマ性があり、ラスト近くではそのオーラが無くなってないといけないし、マーゴット・ロビーの場合は最初はちょっと綺麗でヤンチャな女の子で、人気が出てからは誰もが振り返るような美と色気が必要なはず。だけどそうはなってない。ブラピもマーゴット・ロビーももっと美しく撮れよ…!!って観ながらずっと思っちゃったよ。

なので栄光と挫折っていうストーリーが台詞と状況だけで説明されてしまい、展開が腑に落ちないことになるんですよ。『ラ・ラ・ランド』もそうだったじゃん、エマ・ストーンの成功が一目で分かるように”大女優”のオーラが撮れてたら、そしてそれが”普通のアーティスト”であるライアン・ゴズリングと明らかに差があったりしたら、展開やラストにもっと納得できたかもしれん。

ところで最初のパーティのシーンでバズ・ラーマンの『華麗なるギャツビー』を思い出した方も多いと思いますが(知らんけど)、時代がほぼ同じというだけでなく”過剰なまでの俗っぽさ”という点で同じものを撮ろうとしているような気がしますが、バズ・ラーマンのほうが圧倒的に好みだな、って思いました!!バズ・ラーマン、人を狂わせるほど美しい男女を撮れるし。最新作の『エルヴィス』の色気も凄かったよねえ…(遠い目)。あ、オースティン・バトラー、アカデミー賞主演男優賞ノミネートおめでとうございます!

閑話休題

 

あとはまあ、ハリウッドの歴史というわりにちょっとズルい感じで第二次世界大戦あたりの話をきれいさっぱり飛ばしたよね…別にいいけど…。あのフラッシュバックみたいなところでも40年代の映画、確か無かったよね?まあ思想的な立場を語りたいわけでは無さそうなので、まあそういう感じね、ていう理解はしたけどさ。無邪気な映画ファンならともかく、チャゼルは作り手側なんだけどなあ、とは思いますね。

はい!ということで『バビロン』の感想でした!チャゼルへの悪口のほうが多くなっちまったな…すまん。

サイレント時代の撮影風景はとても楽しかったので、あれをメインにもうちょっとしっかり群像劇をやってくれればもっと好きだったのになあ!という感じですね、以上です!

では!!!!

 

2023/03/07 追記!ラストで引用された映画のリスト!

デイミアン・チャゼル監督『バビロン』エンディングで引用される映画史上重要な49の映像の全リスト|映画秘宝公式note|note